館長挨拶

2014年10月29日、中村屋は永年皆様にご愛顧いただきました「新宿中村屋本店」を建て替え、商業ビル「新宿中村屋ビル」を開業いたしました。この地は1909年に東京・本郷から本店を移転して以来、当社発展の要となってきた場所であり、また、明治末から大正、昭和初期にかけて多くの芸術家・文化人たちが集った場所でもあります。

中村屋の創業者 相馬愛蔵・黒光夫妻は芸術・文化に深い理解を示し、愛蔵と同郷の彫刻家 荻原守衛(碌山)や荻原を慕う若き芸術家などを支援しました。彼らは中村屋を舞台に切磋琢磨することでそれぞれの才能を開花させます。その様子は後にヨーロッパのサロンに例えられ、「中村屋サロン」として日本近代美術史にその名を刻むとともに、中村屋に芸術・文化の薫りを添えました。

このたびのビル建て替えにあたり、中村屋ならではの独創的な商品をご提供することはもちろんですが、創業者が残した芸術・文化の薫りを今に伝えるとともに、新たな発信を行うことも当社の大切な使命であると考え、新宿中村屋ビル3階に「中村屋サロン美術館」を開設することにいたしました。ここでは中村屋サロンの芸術家たちの作品をご紹介するとともに、新進芸術家や地域に関する作品展示・イベント、その他、広く芸術・文化の振興につながるような企画を実施していきます。

小規模な施設ではありますが新宿という立地を生かし、多くの人々が集い、気軽に芸術・文化に触れられる場、まさにサロンのような場所を目指してまいります。

  • 中村屋サロン美術館
  • 館長鈴木 達也

フロアガイド(map)

フロアガイド

展示室1

展示室2


小規模ながら、新宿の喧騒を忘れてゆっくり芸術に親しむことのできる落ち着いた空間です。所蔵作品を中心とする展示のほか、企画展も開催いたします。

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中村屋サロンとは

創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻は1901(明治34)年、本郷でパン屋「中村屋」を創業しました。そして1909(明治42)年には、新宿の現在の地に本店を移転します。相馬夫妻は芸術に深い造詣を有していたことから、中村屋には多くの芸術家、文人、演劇人が出入りするようになりました。それが「中村屋サロン」のはじまりです。

長野県安曇野市出身の作家 臼井吉見が、激動の明治から昭和を描いた全5巻からなる長編小説『安曇野』を上梓したのは昭和40年代、その話の中心には相馬夫妻がありました。臼井は各地での講演活動の中で、中村屋に多くの芸術家が集い、文人が出入りした様を「まるでヨーロッパのサロンのようだった」と表現します。ここに端を発して、いつの間にか「中村屋サロン」という言葉が生まれました。

中村屋サロンの中心人物は荻原守衛(碌山)でした。荻原は愛蔵と同郷で、黒光が嫁入りの際に持参した長尾杢太郎《亀戸風景》(油絵)ではじめて油絵を知り、画家を志します。海外に渡り彫刻家に転向した荻原が帰国したのは1908(明治41)年。帰国後は新宿角筈にアトリエを設け、中村屋に足しげく通います。彼を慕って多くの芸術家が中村屋に出入りするようになり、中村屋は彼らの交流の場になっていきました。

残念なことに、荻原は1910(明治43)年に30歳の若さで亡くなります。その後、中村屋サロンの中心人物となったのが中村彝でした。彝は一時、中村屋裏にあるアトリエで生活し、彼のもとにも多くの芸術家が訪れました。その他、書家・美術史家の會津八一や女優の松井須磨子、劇作家の秋田雨雀、インド独立運動の志士 ラス・ビハリ・ボースなど、多彩な人々が中村屋と関わりを持ちます。

これらの顔ぶれを見ると、明治の終わりから大正、昭和初期にかけて、中村屋に集った多くの人々が日本の近代芸術・文化に影響を与えたことが分かります。今日になって振り返ると、それは近代日本における大きな芸術の流れの1つであり、「中村屋サロン」はその舞台となったのです。

荻原守衛の追悼会での相馬一家と中村屋サロンの若き芸術家たち

荻原守衛の追悼会での相馬一家と中村屋サロンの若き芸術家たち。前列左から相馬黒光、相馬安雄(長男)、中村彝、相馬千香(次女)、山本安曇。後列左から斎藤与里、戸張孤雁、相馬愛蔵、中原悌二郎、荻原本十(守衛実兄)、柳敬助

1909(明治42)年頃の新宿中村屋本店の様子

1909(明治42)年頃の新宿中村屋本店の様子

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