ワシリー・エロシェンコ

光を失った少年時代

ワシリー・エロシェンコは1890(明治23)年、ウクライナに生まれました。健康で陽気な少年でしたが、4歳の時はしかにかかります。しかし、宗教心の強かった祖母は、神のみが病を治せると信じ、医者には診せずエロシェンコを教会へ。病気は当然のごとく悪化し、しまいには失明してしまいます。それからというもの、エロシェンコは扱いづらい少年へと変貌。少年にとって光の届かない暗黒の世界は、全てを自分の敵に変えてしまったのです。

心配した父親は9歳になった息子をモスクワの盲学校に入学させました。しかしそこにあったのはまるで子供収容所の世界。世の中から隔離された場所で、独りでは学校の外に出ることさえ禁じられ、昼も夜も先生達によって厳重に監視されていました。

この少年時代の経験から、迷信への怒りと科学への憧憬、権威への反発、人を"肌の色"ではなく人間性でみる心が芽生えたのです。そして盲学校在学中にエスペラント語に出合います。

憧れの地、日本へ

盲学校卒業後、やっと自宅に戻ったエロシェンコは盲人オーケストラで働きます。そして1912(大正元)年にはイギリスの王立盲人師範学校に入学しますが、無頼な生活を繰り返したため放校されてしまいます。そのイギリスで日本では盲人が自活しているとのうわさを聞き、日本行きを決意。日本語を覚え、1914(大正3)年、憧れの地を踏みます。

日本では、エスペラント語の普及や詩集の発行などの活躍をし、劇作家の秋田雨雀、早稲田大学の教師 片上伸、ジャーナリストの神近市子らと交流を持ちました。彼らに伴われて中村屋を訪れたエロシェンコに、創業者である中村屋のおかみさん 相馬黒光は自分が片上と一緒にロシア語の勉強を始めたいきさつを話します。そして黒光はエロシェンコが片上に教えている日常ロシア語の仲間に入れてくれないかと提案しました。

中村屋時代

バイオリンを弾く
エロシェンコと黒光

黒光はエロシェンコを気に入り、衣食住の面倒を見、エロシェンコもまた黒光をマーモチカ(おかあさん)と呼ぶようにまでなります。そして1916(大正5)年、一度は東南・南アジアに渡りますが、1919(大正8)年、再び日本に戻り中村屋を訪ねます。1920(大正9)年には鶴田吾郎中村彝の絵のモデルを務めたり、中村屋での「土の会」という脚本朗読会でエロシェンコの脚本が読まれたりと、黒光との関わりは以前のそれと変わらないものでした。しかし、また、同時期に起った日本での社会主義の高揚やエスペラント講習会で知り合った高津正道や彼の仲間で盲人の小野兼次郎らの影響を受け、社会主義に傾倒していきました。そして当時日本が警戒していたボルシェビキ(ロシア共産主義者)の嫌疑をかけられてしまいます。淀橋署の警官が中村屋を取り巻き、土足のまま乱入。黒光の部屋でエロシェンコを見つけ、強制連行します。そこで、相馬夫妻は淀橋署長を告訴。結局署長の引責辞任で決着がつきました。このような相馬夫妻の擁護も実らず、エロシェンコは1921(大正10)年、日本を追放されます。

相馬夫妻はエロシェンコとの出会いがきっかけで、店員の制服を彼が愛用していたロシアの民族衣装 ルパシカにし、1927(昭和2)年にはロシア料理のボルシチ、1933(昭和8)年にはピロシキを発売しました。

日本追放後

その後、魯迅に招かれて北京に渡り、北京大学で教鞭をとったり演劇活動を行います。また北京のメーデーやエスペランチスト大会に参加したり、詩集や童話を発表したりし、日本での活動を延長して続けました。そして1923(大正12)年、ロシアで盲人のための仕事に従事。1949(昭和24)年に故郷に移り、1952(昭和27)年12月23日に永眠しました。

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