戸張孤雁とはり こがん

親友との出会い

戸張孤雁は、1882(明治15)年、東京・日本橋に志村久蔵の長男として生まれました。本名は志村亀吉。後に母方の家を継ぎ戸張と名乗ります。幼少の頃から絵に興味を持ち、日本銀行に就職した際にも銀行窓口で絵ばかりを描いて上司から叱責されるくらいの熱の入れようでした。また夜間には片山潜に英語を習い、ついに絵の勉強のため渡米します。1901(明治34)年のことでした。

そして1902(明治35)年、戸張は生涯の親友と出会います。渡米後ナショナルアカデミーで挿絵や洋画を学んでいた彼を荻原守衛(碌山)が訪ねてきたのです。戸張はアカデミーを辞め、碌山に誘われアートリーグに通い、1906(明治39)年に自身が病で帰国するまでの短い間でしたが、お互いを理解しあい切磋琢磨していきました。

それぞれの道へ

戸張は帰国後、神奈川・小田原で療養し、1907(明治40)年に東京・日暮里に移り、木下尚江や徳富蘆花の本の挿絵を描いたり、『孤雁挿絵集』の出版準備をすすめます。また、結果的には失敗に終わりますが、洋風挿絵研究会を起こし普及に努めるなど精力的に活動します。

一方、碌山はその後パリに行きオーギュスト・ロダンと出会うことで彫刻に転じ、1908(明治41)年に帰国。2人は3月に、芸術の別の道を歩む者として再会します。そして碌山は新宿角筈にアトリエを作りますが、マメにお互いのアトリエに通い合いました。同年10月には『孤雁挿絵集 壱巻』を刊行。序文は碌山が書いています。

親友との別れ、そして彫刻の道へ

「女」碌山

1910(明治43)年4月、写生のため荒川土手に出かけ夕方に帰宅した戸張は、中村屋の創業者 相馬黒光からの1枚のメモを受けとります。それは親友である碌山危篤の知らせでした。急いで碌山の居る中村屋に駆けつけました。口もきけないほどに衰弱した碌山は閉じていた目を開けて幾度となく戸張と握手をします。何度か血を吐いた後、碌山は彼の手を握ると間もなく帰らぬ人となったのでした。

親友の死をみとった数日後、戸張は黒光を誘い碌山のアトリエへと入ります。故人の日記が読まれないように焼くのが目的でした。中に入ると、まず彫刻台に生々しい土のままで置かれている絶作となった「女」が目に入ります。2人は、その作品に何かしらを感じながらも、碌山の机から日記を取り出すと、戸張は泣きながら、黒光は冷静にストーブに日記の一枚一枚をくべて焼きました。そして戸張は碌山の使った粘土を貰い受け、碌山の歩んだ“彫刻”の道を目指すことを決意。中原悌二郎とともに太平洋画会研究所彫塑部に入ります。

彫刻家として

「足芸」

1910(明治43)年、第四回文展に彫刻「をなご」を初出品し入選。その後、1914(大正3)年には「足芸」の制作、大正博覧会には「玉乗りの女」、第八回文展には「犠牲者」を出品し褒状を受け、1916(大正5)年に自宅画室で個展を開催するなど彫刻家としての活動に力を入れます。戸張は自分の彫刻を「重い力強さが欠けている」と感じていたようですが、ロダン―碌山の流れを汲みながらも、瞬時の動きを捕まえる新鮮な感覚や柔らかな肉付け、繊細な陰影の美しさに独特のものがありました。戸張は彫刻家として優れた業績を残しましたが、挿絵画家、版画運動の功労者として後世の評価も高いものがあります。

1921(大正10)年、病気再発のため御宿に引っ越しますが制作を続け、1927(昭和2)年6月、病床にて「碌山を憶ふて彫刻界の現状に及ぶ」を執筆。それを最後に12月9日自宅にて永眠します。45歳の若さでした。

ページ
トップ