井口喜源治いぐち きげんじ
キリスト教へのめざめ
井口喜源治は1870(明治3)年5月3日、父 喜十、母 こんの長男として中村屋の創業者 相馬愛蔵と同じ、現在の長野県安曇野市穂高に生まれました。3歳のときに母を亡くし父と祖母に育てられますが、1876(明治9)年に穂高の保等小学校、1884(明治17)年に愛蔵とともに松本尋常中学校へ進学し、学識を高めていきます。また、この中学校時代に、英語教師であった米国人宣教師エルマーより教えを受け、キリスト教に入信。その後、明治法律学校へ進学しますが、しばしば牛込教会に通い、また内村鑑三、巖本善治ら宗教家・宗教的教育家に会い、教育の道に興味を持つようになります。そして教育の道に進むため1890(明治23)年、学校を中退し、上高井高等小学校小布施分校の教師となりました。
井口喜源治と相馬愛蔵
1892(明治25)年には松本尋常高等小学校(開智学校)に教師として招かれるなど、順調な教師生活を送っていた井口は、1893(明治26)年の結婚を機に、東穂高尋常高等小学校に転任。そこで、愛蔵らが創立した東穂高禁酒会に入会します。井口は精力的に活動を行い、東穂高禁酒会の運動は次第に村の若者達に広がりますが、思わぬ事態が生じてしまいます。教え子の中からキリスト教を信仰するものが続出したため、井口は、校長、その他の教員たちから排斥されてしまったのです。原因は、当時の田舎ではキリスト教はヤソと言われ毛嫌いされていたことと、井口が教壇を使って生徒達に布教活動をしたと思われたこと。実際は、生徒達は井口の人柄に傾倒し、自発的にキリスト教を信仰したまででしたが、言い分は受け入れられませんでした。禁酒会が村内への芸妓置屋設置反対運動を展開していたため、推進派の妨害行為の一環でもありました。そこで井口は自ら辞表をたたきつけ、教職を去ることを決意しました。
ことの成り行きを心配した愛蔵は村内の有志らとともに、親友のために研成義塾という私学校を村に起こします。そして井口をその塾頭にし、キリスト教的教育に没頭できる道を創ったのです。1898(明治31)年のことでした。
研成義塾
研成義塾は、初めは区の集会所を借りた生徒11人の小規模なものでしたが、2年後、愛蔵らの支援により本科教室と裁縫室、応接室のある新校舎が建てられました。また、内村は何度も義塾を訪ね講演などを行い、井口に深い理解を示し、高く評価します。彼を支えたものはまさしく、経済的には相馬家であり、精神的には内村でした。
義塾は
- 一.家庭的ならんこと
- 一.永遠の感化
- 一.天賦の特性を発達せしめんこと
- 一.宗派のいかんに干渉せず
- 一.新旧思想の調和
- 一.社会との連絡に注意す
をモットーとし、ここから多くの逸材が育ちます。1938(昭和13)年7月21日に井口は亡くなりますが、その年まで続いた義塾の卒業生は800名近くにのぼり、朝日新聞の自由主義評論家 清沢洌やワシントン靴店店主 東條たかしなど、評論家、実業家、芸術家、学者として名の知られた人もいました。しかし、多くは地域にとどまり、謙虚・誠実・勤勉な文明人としてその一生を送りました。その死を悼んで愛蔵は「穂高の聖者」、清沢は「無名の大教育家」と言葉を送っています。