岡田虎二郎おかだ とらじろう

幼少期

岡田虎二郎は1872(明治5)年6月13日、田原藩士族の父 宣方の次男として現在の愛知県田原市に生まれました。約8カ月半で誕生した未熟児であったため、生まれついての虚弱体質。そのせいもあり、1879(明治12)年の田原小学校入学から1887(明治20)年の渥美郡第二高等小学校補習科卒業までの8年間しか教育を受けず、その後はのんびりと農業に従事しました。「14歳のとき…夕陽を見ておったが、それから変わった」と後日、本人が語るところから察すると、早熟な、感受性の強い少年だったようです。

農業研究に勤しんだ青年期

20歳のころから農業に従事しつつ農作物の研究に没頭します。岡田の農業の手法は独特で、一日中農作物の葉や実を見つめるというもの。それは農作物の声を聞き、何を要求しているのか知るためでした。そして品種の改良や効率的な肥料配合の研究に取り組んでいきます。

そんな折、渥美郡に勧農協会が結成され、農事講習会が開かれます。1894(明治27)年のことでした。議論好きで勝気、注意力に優れ、凝り性の岡田は自ら進んで参加。田舎の一農業青年が、講師である新進の学者と議論闘争を繰り返します。1896(明治29)年、講習会は終了しますが、岡田は首席で卒業、卒論は当時の新学説であったリービッヒの「最少養分率」を一歩進めた『最少養分率の応用』でした。またこの年、渥美郡青年同志会を結成、自ら会長になり農業の研究に注力します。大日本農会の品評会で、自作米全国一の賞を受けるなど、充実した農業生活を送っていましたが、ふとひとつのことを感じます。「植物は思うように改良できるが、人の改造はもっと大切なのではないか…人間教育こそが生涯をかけてやるべきことなのではないか…」。

農作物の研究から人間の探求へ

1897(明治30)年ごろから始まった岡田の人間探求。キリストや釈迦、プラトンや孔子から、シェークスピア、ベートーベンまで、広い分野での著名人の研究、肥料栄養分率の人間への応用を試み、1901(明治34)年には渡米します。そこで自身の改造や人間教育、文学などを学び、精神的に成長。またそれが体にも表れ、病弱のほっそりとした容姿は面影も無い、がっちりとした体格に。自己を見つめることで心身ともに生まれ変わったのです。

また、この渡米中に結婚、山本家に婿入りします。そして帰国後は山本家で生活をしますが、山本家は商家であり、帰国したら塾を開きたいと考えていた岡田はそのギャップを痛感。悩みに悩んだ末、山本家を去り、甲州の山中で黙坐をします。これが、人間探求が静坐法へと具現化されたきっかけでした。

静坐法の確立

黙坐により徹底的に自己を見つめ直した岡田は、再び心身ともに成長します。そして東京に移り住み「世の心身病弱者を救済したい」と思うようになります。新聞に黙坐に関する広告を出したり、知り合いの発狂した青年を預かり更生させたりするなど精力的に活動を行った結果、1910(明治43)年ごろには知識人が訪ね、教えを請うまでになります。その中には、木下尚江、田中正造などがおり、中村屋の創業者 相馬黒光も木下の紹介で岡田と知り合いました。このころから岡田発案の黙坐の方法を「静坐法」と名づけ、1911(明治45)年には『岡田式静坐法』と題した書物を出版。瞬く間に世間に広まり、その活動は多忙を極めました。岡田は毎朝未明より本拠の日暮里本行寺で指導を行った後、定まった会場だけでも週に70カ所を巡って指導しており、その多忙ぶりがよくわかります。

また、その会場として安田家、岩崎家、細川家、徳川家、前田家、鍋島家…といったそうそうたる名家が並ぶ中、相馬家が月曜日の第一番の会場となっていることから、黒光の傾倒ぶりをうかがい知ることができます。

岡田はそんな多忙ななかでも自己を見つめ直すことも忘れず、元の妻と復縁。1919(大正8)年には婚姻届けを提出しています。しかし、あまりの激務がたたったのか、岡田は体に異変を感じます。1920(大正9)年、指導のために無理を押して8月に関西や四国、山陰を巡りますが、10月に悪化、17日に48歳で永眠しました。

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