中村屋サロンの歴史

新宿移転後、中村屋には多くの芸術家、文人、演劇人らが出入りするようになります。「中村屋サロン」の始まりです。相馬夫妻は芸術に深い造詣を有し、物心両面で芸術家を支援しました。ではこの「サロン」、中村屋のどこにあって、誰が運営していたのでしょうか?

安曇野出身の作家 臼井吉見が、激動の明治から昭和を描いた全5巻からなる長編小説『安曇野』を上梓したのは昭和40年代、その話の中心には相馬夫妻がありました。臼井は各地での講演活動の中で、中村屋に多くの芸術家が集い、文人が出入りした様を「まるでヨーロッパのサロンのようだった」と表現します。ここに端を発して、いつの間にか「中村屋サロン」という言葉が生まれたのです。つまり、「中村屋サロン」は後世になってできた言葉でした。

中村屋サロンの中心人物は碌山でした。碌山は相馬愛蔵と同郷で、画家を志すきっかけのひとつが黒光が嫁入りした際に持参した長尾杢太郎の「亀戸風景」(油絵)でした。しかし、遊学中のパリでオーギュスト・ロダンと出会い、彫刻に転向。1908(明治41)年に帰国します。帰国後は新宿西口にアトリエを設け、中村屋に足しげく通います。その碌山を慕って多くの画家や彫刻家が中村屋に出入りするようになり、中村屋が芸術家の「溜まり場」になっていきました。
残念なことに、碌山は1910(明治43)年に30歳の若さで亡くなりますが、その後中村屋サロンの中心人物となったのが中村彝でした。彝は中村屋にあるアトリエで生活し、多くの芸術家が彼のもとを訪れます。また彝は、相馬家の子供達をモデルに多くの作品を残しました。

ヨーロッパのサロンといえば「女主人、オーナー」が登場しますが、中村屋サロンではこの役を黒光が務めます。また、黒光は文学や演劇の世界でも支援活動を行いました。自宅を解放し朗読会の会場を設け、しまいには劇場まで作ってしまいます。ここには秋田雨雀が、松井須磨子が、水谷八重子が集いました。

明治の終わりから大正、昭和にかけて、中村屋を舞台に日本の近代芸術・文化に影響を与えた多くの人々が活躍しました。今日になって振り返ると、それは大正期を代表する大きな芸術の流れであり「中村屋サロン」は美術史にその名前を刻まれます。

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