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年
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出 来 事 |
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明治41年
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荻原守衛(碌山)が欧州から帰国。角筈(現在の新宿)にアトリエを建て、そこから中村屋に通う。 |
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42年
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碌山の帰国以来、戸張孤雁、柳敬助等のほか、碌山の説く『生命の芸術』を探るため、中村彝、中原悌二郎が中村屋に出入りし、とみに芸術的雰囲気が広がる。 |
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43年
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碌山が友人柳のために中村屋裏の古洋館をアトリエに改造する。
碌山、喀血し息を引き取る。
柳が中村屋のアトリエの隣に碌山のアトリエを移して2階建てとし、碌山館と称して碌山の遺作を公開。 |
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大正初頭
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黒光は中村屋の2階でロシア語とロシア文学研究の会をもち、早稲田大学教授の片上伸、昇曙夢、吉江喬松、桂井当之助等と定期研究会を開く
早稲田大学教授島村抱月主催の「芸術座」のメンバーと親交を結び、中村吉蔵、秋田雨雀、松井須磨子等と親しみ、翻訳劇、近代劇の普及に一役買う |
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5年
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早稲田中学英語教師だった歌人会津八一と親交を結び、奈良朝美術の再認識と書道の振興につとめる。 |
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8年
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漂泊のロシア人ニンツァが中村屋をおとずれ、中原悌二郎作の「若きカフカス人」という彫刻のモデルとなる。
ロシアの盲人エロシェンコが身を寄せ、中村彝、鶴田吾郎が彼をモデルにした油絵を製作した。
ロシア歌劇団の来朝に尽力し、その成功に協力。これに感激した歌劇団の花形女優ブルースカヤの一行が、中村屋に答礼のため訪問。 |
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10年
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小牧近江等の同人雑誌「種蒔く人」の創刊に協力(プロレタリア文学の先駆誌) |
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11年
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インドの詩聖タゴール来日。黒光が会談し、日印親善のため女子学生の交換を約束。 |
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12年
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中村屋サロン脚本朗読会メンバーの希望を取り入れ、麹町平河町の相馬私邸内に土蔵劇場を開設、先駆座と命名。 |