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愛蔵は明治30年3月、黒光と東京で式を挙げ、東穂高村で新生活を始めます。黒光は都会的なセンスと才気を持った女性で、守衛は黒光にあこがれをいだきます。守衛はその日記の中で「相馬兄を訪 桑摘みなす姉良子(黒光)の君と対談数刻 女学雑誌の事より宗教上信仰の堅と否の事につき談あり アア才智ある婦女子の会話は実に喜ばしきものなり」と語っています。そして、
〜絵画から彫刻へ〜 留学中、アメリカではウォルター・パッチや戸張孤雁、フランスでは中村不折や岡精一に会い、感化されながら芸術性を高めていきましたが、一番の出会いはロダンの代表作「考える人」との出会いでした。守衛は「私は作品に接して、初めて芸術の威厳に打たれ、美の神聖なるを覚知して茲に彫刻家になろうと決心した」と、その時の感動を記しています。
〜生命をつぎこんだ創作活動〜 ![]() 帰国後は新宿西口に”忘却庵”というアトリエを建てて創作活動に勤しみます。このアトリエでの初めての作品が『文覚』、続いて『デスペア』を製作します。『文覚』は第二回文展で3等賞となりましたが、同じく出点した『坑夫』は落選。当時の日本彫刻界では未完成の作品としてしかうつらなかったのです。 その後、『戸張孤雁像』『香炉』『灰皿』などが製作され、明治43年、日本近代彫刻史上最高傑作といわれる『女』が製作されました。 ![]() 熱心な創作活動が魂をすり減らしたのか、守衛は帰国からわずか3年後の明治43年4月20日、突然喀血します。ちょうど愛蔵・黒光夫妻と相談の上、帰国した友人柳敬助のためにアトリエを改造して完成した、その日の出来事でした。そして22日深夜、守衛は帰らぬ人となります。あまりにも突然の死で、この時守衛はまだ30歳の若さでした。 |
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