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荻原守衛(碌山)
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● 荻原守衛(碌山)

 おぎわら もりえ(ろくざん)
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〜出会いは禁酒会〜
 荻原守衛(碌山)は明治12年12月1日、5人兄弟の末っ子として、
中村屋の創業者 相馬愛蔵と同じ長野県南安曇郡東穂高村に生まれました。
 明治24年、愛蔵は11人の会員で東穂高禁酒会を設立。
守衛は27年11月に入会し、愛蔵らと行動を共にするようになりました。この時守衛は15歳でした。

研成義塾開設1周年記念写真
後列一番左が守衛
〜黒光の影響で芸術家を志す〜
 愛蔵は明治30年3月、黒光と東京で式を挙げ、東穂高村で新生活を始めます。黒光は都会的なセンスと才気を持った女性で、守衛は黒光に憧れを抱きます。守衛はその日記の中で「相馬兄を訪 桑摘みなす姉 良子(黒光)の君と対談数刻 女学雑誌の事より宗教上信仰の堅と否の事につき談あり アア才智ある婦女子の会話は実に喜ばしきものなり」と語っています。そして、
長尾杢太郎作の「亀戸風景」
相馬家の洋間に飾られた黒光が持参した長尾杢太郎作の「亀戸風景」をはじめて見て、 日本画には見られない迫真感に強いショックを受け、芸術家を志すようになりました。守衛は黒光に触発されて文学や絵画について新しい知識をむさぼるように吸収し、黒光により芸術に対する眼をひらかれました。 芸術に目覚めた守衛は、明治32年10月、何回かの家出の後、ようやくその志が親に認められて上京。本郷にある小山正太郎の画塾不同舎で絵を学びます。同級生には青木繁がいました。そして、明治34年にはアメリカへ遊学します。家僕として働きながら技術主義のアートスチューデントリーグオブニューヨークで学び、35年には印象主義のニューヨークスクールオブアーツに移ります。そして、翌年にはパリに渡り、数多くの芸術品に接し、そのセンスを磨きました。


〜絵画から彫刻へ〜
 留学中、アメリカではウォルター・パッチや戸張孤雁、フランスでは中村不折や岡精一に会い、感化されながら芸術性を高めていきましたが、オーギュスト・ロダンの代表作「考える人」との出合いは大きな転機になりました。守衛は「私は作品に接して、初めて芸術の威厳に打たれ、美の神聖なるを覚知して茲に彫刻家にならうと決心した」と、その時の感動を記しています。
 明治40年、守衛は初めてロダンを訪問し、その後、アトリエでロダンの作品を直に見たり、親友パッチと共にロダンに会い直接教えも受けます。こうして碌山はロダンを師と仰ぎ、ロダンも次第に碌山を弟子として扱うようになりました。
 フランス留学中、20数点の彫刻を制作。日本の近代彫刻の礎を築いた記念碑的作品「坑夫」が生まれたのもこの時期です(この時期の作品は「坑夫」と「女の胴(トルソー)」しか残っていません)。
 以後、イタリア、ギリシャ、エジプトの美術を見て廻り、明治41年、神戸に着きます。実に7年にわたる遊学でした。ちなみに、渡欧中の明治40年夏、「碌山」という雅号を名乗るようになります。
「坑夫」



〜生命をつぎこんだ創作活動〜
碌山の絶作「女」
モデルは別にいたが、その姿は相馬黒光を思わせる

 帰国後は新宿西口に”オブリビオン(忘却庵)”というアトリエを建てて創作活動に勤しみます。このアトリエでの初めての作品が「文覚」、続いて「デスペア」を制作します。「文覚」は第二回文展で三等賞となりましたが、同じく出展した「坑夫」「女の胴(トルソー)」は落選。当時の日本彫刻界では未完成の作品としてしかうつらなかったのです。
 その後、「北條虎吉像」「戸張孤雁像」「香炉」「灰皿」などが制作され、明治43年、日本近代彫刻史上最高傑作といわれる「女」が制作されました。
 熱心な創作活動が魂をすり減らしたのか、碌山は帰国からわずか3年後の明治43年4月20日、突然大量の血を吐きます。ちょうど愛蔵・黒光夫妻と相談の上、帰国した友人 柳敬助のためにアトリエを改造して完成した、その日の出来事でした。そして22日深夜、碌山は帰らぬ人となります。あまりにも突然の死で、この時碌山はまだ30歳の若さでした。
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