新宿中村屋
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● 中村彝(なかむら つね)


〜軍人を目指した青年期〜
 中村彝は明治20年7月3日、5人兄弟の末っ子として茨城県水戸市に生まれました。2歳の時父を亡くした彝は、陸軍軍人であった長男・直を父代わりとし、その影響を受けて軍人を目指します。名古屋地方陸軍幼年学校に入学し、スパルタ教育に耐え無事卒業、そして東京中央幼年学校に進学します。しかし17歳の時、肺結核と診断され、退学を余儀なくされます。エリート軍人への道を走っていた彝にとって、そのショックは計り知れないものでした。

〜絵に生きる道を見いだす〜

 そんな彝に救いを差しのべたのが"絵画"でした。陸軍学校の前に通っていた愛日小学校で知り合った野田半三の影響で、以前から絵を描くことに興味を持っていた彝は、療養しながら絵を描くようになります。美術学校在学中には遠山五郎、中原悌二郎、鶴田吾郎らと知り合い切磋琢磨。そして明治42年の第三回文展で『巌』『曇り日』が入選し褒賞を受賞、44年の文展では『女』で三等賞を得ます。

〜新宿中村屋時代〜
小女
「本店3Fレガルにレプリカを展示」
 同年、彝は新宿中村屋裏のアトリエに移ります。 このアトリエは親友 の 荻原碌山が洋館を改装したものでした。 アトリエでの制作に熱中するあまり、食事もろくにとらなかった彝を心配して、相馬夫妻は彝を食卓に招き、それから彝は相馬家の家族の一員となります。大正3年、相馬家の長女・俊子をモデルとした『少女裸像』と着衣の『小女』を書き、『小女』は文展の三等賞に入賞。彝は自分のために裸になってくれる俊子の優しさに次第に惹かれていきます。しかし、二人の仲を相馬夫妻が注目するようになります。いくら芸術であっても我が娘の裸体の絵を文展に飾り 、人々の目にさらすことへの抵抗、俊子が敬愛しているとしても相手は喀血が続いている病人…。次第に夫婦は俊子が彝に接近するのを妨げるようになってしまいます。そして終に彝は中村屋を離れ本郷に移転、大正3年の暮れには大島に逃避します。大正5年に俊子と再会するもその恋は実らず、彝の短い生涯の中で最大の悲劇となりました。

〜下落合時代〜
エロシェンコ氏の像

 以後、いろいろな土地を転々とし、最終的に下落合のアトリエに落着きます。移転当初は友人も多く訪れましたが、傷心の彝は自炊生活や製作の疲れも出、喀血が続きます。それを心配した友人が岡崎キイに彝の世話を頼み、彝は病魔と戦いながらの制作活動に熱中しました。そしてある日、友人の鶴田吾郎から"モデルにうってつけのロシア人がいる"との話を聞き、鶴田と一緒に彝の画室で制作するようになります。そのモデルは盲目の詩人・エロシェンコでした。エロシェンコは中村屋の洋館に住んでおり、目白駅で見かけた鶴田が「私、画家ですが、モデルになってくれませんか?」と声をかけたのです。黒光と相談しこの話を受けたエロシェンコは、8日間彝のアトリエに通います。二人の画家はとりつかれたように書き始め、緊張の連続の8日間が経過。体力の限界になった彝を鶴田が止めて制作が終了しました。作品は第二回帝展に出品され、彝の作品は明治以降の油絵の肖像画中最高の傑作と謳われ、鶴田も初入選を果たしました。その後、精力的に自画像や岡崎キイをモデルに絵を描きましたが、終に力尽き、大正13年12月、喀血のため永眠します。38歳という短い生涯でしたが、彝の残した作品の影響力は大きく、70年、80年の芸術過程をふんだ人のそれに勝るとも劣らないものでした。
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