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〜絵に生きる道を見いだす〜
そんな彝に救いを差しのべたのが"絵画"でした。陸軍学校の前に通っていた愛日小学校で知り合った野田半三の影響で、以前から絵を描くことに興味を持っていた彝は、療養しながら絵を描くようになります。美術学校在学中には遠山五郎、中原悌二郎、鶴田吾郎らと知り合い切磋琢磨。そして明治42年の第三回文展で『巌』『曇り日』が入選し褒賞を受賞、44年の文展では『女』で三等賞を得ます。 〜新宿中村屋時代〜
〜下落合時代〜
以後、いろいろな土地を転々とし、最終的に下落合のアトリエに落着きます。移転当初は友人も多く訪れましたが、傷心の彝は自炊生活や製作の疲れも出、喀血が続きます。それを心配した友人が岡崎キイに彝の世話を頼み、彝は病魔と戦いながらの制作活動に熱中しました。そしてある日、友人の鶴田吾郎から"モデルにうってつけのロシア人がいる"との話を聞き、鶴田と一緒に彝の画室で制作するようになります。そのモデルは盲目の詩人・エロシェンコでした。エロシェンコは中村屋の洋館に住んでおり、目白駅で見かけた鶴田が「私、画家ですが、モデルになってくれませんか?」と声をかけたのです。黒光と相談しこの話を受けたエロシェンコは、8日間彝のアトリエに通います。二人の画家はとりつかれたように書き始め、緊張の連続の8日間が経過。体力の限界になった彝を鶴田が止めて制作が終了しました。作品は第二回帝展に出品され、彝の作品は明治以降の油絵の肖像画中最高の傑作と謳われ、鶴田も初入選を果たしました。その後、精力的に自画像や岡崎キイをモデルに絵を描きましたが、終に力尽き、大正13年12月、喀血のため永眠します。38歳という短い生涯でしたが、彝の残した作品の影響力は大きく、70年、80年の芸術過程をふんだ人のそれに勝るとも劣らないものでした。 |
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