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作:中村 彝
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● エロシェンコ
〜光を失った少年時代〜
ワシリー・エロシェンコは1890年、ロシアのオブホーフカに生まれました。健康で陽気な少年でしたが、4歳の時ひどい病にかかります。しかし、宗教心の強かった両親は、神のみが病を治せると信じ、医者には診せずエロシェンコを教会へ。外は零下40℃。病気は当然のごとく悪化し、終には失明してしまいます。それからというもの、エロシェンコは扱いづらい少年へと変貌。少年にとって光の届かない暗黒の世界は、全てを自分の敵に変えてしまったのです。
心配した父親は息子をモスクワの盲人学校に入学させました。しかしそこにあったのはまるで子供収容所の世界。世の中から隔離された場所で、独りでは塀の外に出ることさえ禁じられ、昼も夜も先生達によって厳重に監視されていました。
この少年時代の経験から、迷信へのいかりと科学への憧憬、権威への反発、人を"肌の色"ではなく人間性でみる心が芽生えたのです。
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〜憧れの地、日本へ〜
1909年、やっと自宅に戻ったエロシェンコは盲人オーケストラで働き、1911年カスカズ、1912年イギリスを旅行。カスカズでは当時流行した人造の国際共通語であるエスペラント語を覚え、イギリスでは日本が盲人に対して寛容であるとの噂を聞きます。そして日本行きを決意。日本語を覚え、日本人とエスペラント語で文通をして準備を進め、1914年、憧れの日本の地を踏みます。
日本では、劇作家の秋田雨雀、早稲田大学の教師片上伸、ジャーナリストの神近市子らと交流を持ち、片上のつくったサークルで相馬黒光に出会いました。
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〜中村屋時代〜
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バイオリンを弾く
エロシェンコと黒光
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中村屋の創業者 相馬黒光はエロシェンコを気に入り、衣食住の面倒をみ、エロシェンコもまた黒光をおかあさんとまで呼ぶようになります。そして1916年、一度は東南アジアに渡りますが、1919年再び日本に戻り中村屋を訪ねます。1920年には鶴田吾郎と中村彝の絵のモデルを務めたり、中村屋での「地の会」という脚本朗読会でエロシェンコの脚本が読まれたり、黒光との関わりは以前のそれと変わらないものでした。しかし、また、同時期に日本での社会主義の高揚に影響を受け、エロシェンコは社会主義の方に偏っていき、終にはボルシェビキの嫌疑をかけられてしまいます。淀橋署の警官が中村屋を取り巻き、土足のまま乱入。黒光の部屋でエロシェンコを見つけ、強制連行します。そこで、相馬夫妻は淀橋署長を告訴。結局署長の引責辞任で決着がつきました。このような相馬夫妻の擁護も実らず、エロシェンコは1921年、三回目の逮捕で日本を追放されます。
相馬夫妻はエロシェンコへの想いを込めて、店員の制服を彼が愛用していたルパシカにし、1927年ロシア料理のボルシチを発売しました。
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エロシェンコ退去命令記事
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〜日本追放後〜
その後、魯迅に招かれて北京に渡り、北京大学で教鞭をとったり演劇活動を行います。また北京のメーデーやエスペランチスト大会に参加するなど、日本での活動を延長して続けました。そして1923年ロシアに帰り、盲人のための仕事に従事。1952年故郷のオブホーフカに住み、12月23日に永眠しました。 |