新宿中村屋
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會津 八一

● 會津 八一


〜歌人として〜
 會津八一は明治14年8月1日、新潟市屈指の料亭 會津屋の次男として、新潟市古町通5番町で誕生しました。名前の由来は8月1日生まれで八一。平穏無事に幼年期を過ごし、7歳の時西堀小学校に入学、新潟高等学校、尋常中学校へ進学し、いつのころからか俳句を作り始めるようになります。明治32年、尾崎紅葉、坪内逍遥との出会いが更に俳句への探究心を深めましたが、一番大きな影響を与えたのは33年6月の正岡子規との最初で最後の面会でした。俳句、和歌、漢詩について子規と語り明かした八一は、子規の俳句革新の影響を大きく受けるようになります。そして、俳句中心の生活が続き、明治35年には東京専門学校(現 早稲田大学)に入学します。
 ところが、41年の奈良旅行をきっかけに短歌を詠むように。42年、新潟新聞に寄稿した「我が俳諧」では、「技巧の臭を去て、人生の真味を加へ」よと語り、子規の死後、固定されてしまった俳句革新を打破し、卒業後の針村での生活では自己の人生観を、漫然主義、漠然主義、飄然主義とし、子規の俳句革新を脱しつつ、反自然主義的傾向に傾いていきます。そして、大正13年「南京新唱」を出版。この時から短歌が中心になり、昭和8年には私費で「南京余唱」を、続いて「村荘雑事」自筆景印本を私家版で発行します。また、八一の後半期にあたる戦中・戦後には、激しい詩的営みにより「山光集」「寒燈集」を出版。身近な実生活、戦争体験をモチーフにしたシリアスな悲傷の歌は、国民の胸をえぐり共感を誘いました。

〜教育者、東洋美術史学者として〜
 東京専門学校卒業後(明治39年)、新潟の有恒学舎の教師として赴任したのが教育者としての始まりでした。八一はこの地に4年赴任し、明治43年には逍遥の推薦で早稲田中学の英語教師となります。超人的な授業時間数での学生との接触が教師という職業に八一をひきつけ、大正3年には「秋艸堂学規」という八一の人生訓を送ります。

  一.ふかくこの生を愛すべし
  一.かへりみて己を知るべし
  一.学芸を以て性を養ふべし
  一.日々新面目あるべし

 これは、「拙居家塾の塾生の為めに定めしもの」と注記され、八一自ら「率先して実践躬行」しようと述べています。
 また、八一は日本美術史研究も行い、大正12年奈良美術研究会を発足します。そして14年中学教員を辞め、15年早稲田大学文学部で東洋美術史を担当。昭和4年「東洋美術」創刊するなど積極的に活動しました。
〜書家として〜
會津 八一の書
 「俳句を短冊に書く」ことが書を始めるきっかけで、八一が自己を書人として意識していく過程で「潤規」をつくり、書き換え、更に書き換えていきました。水墨画、てん刻などもやり始め、昭和9年には前記した「村荘雑事」を自筆の書で発行し、17・18年度の東京美術研究の講義では「書道論」を行います。
 そして昭和20年、空襲で罹災し新潟へ移り、書が大きな位置を占める新しい生活に入ります。24年には中村屋で個展を開き、昭和26年以降は毎年開催。また新潟でしばしば書論、書談を講演し、昭和31年の永眠まで、"古い時代の仮名と中国の漢詩"の固定した対立を起こしている書道界に対して警告を送りつづけました。
〜中村屋との関係〜
會津八一の書入りの茶器
 大正5年、八一が相馬夫妻の長男 安雄を早稲田中学校で教えた時、八一が安雄をうんと叱って落第させたことがきっかけ。相馬夫妻が八一を訪ね、いさぎよく落第させたことを非常に徳として八一にお礼をいったことに始まります。昭和20年八一が空襲で罹災した時、安雄は八一を自宅に呼びたいと言いましたが、5月中村屋も罹災したため実現せず。しかし、昭和23年中村屋再建にあたり、八一は上京するたびに中村屋を訪れるようになります。そして中村屋には「黒光庵」「那可無楽也」などの看板や、茶器、練羊羹の包装紙などに八一の書が残されています。
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