 |
|
鶴田 吾郎
|
● 鶴田 吾郎
〜悲しみと貧窮の少年時代〜
鶴田吾郎は、明治23年7月新宿の牛込に、宮内省大膳寮に勤める鶴田家の第五子として誕生しました。父・要太郎は農家の出身。その血筋を受け継いで、吾郎は牛込で育ちながらも地は“農民の子”として育ちます。
明治29年に父、33年に母、34年に姉と、肉親を次々に亡くし、悲しみの中で少年期を過ごしますが、家族の協力で明治30年には小学校へ入学、優秀な成績で高等科を卒業。36年には祖父の援助で早稲田中学に入学しますが、翌年援助は途絶え中退を余儀なくされます。少年の吾郎を襲った肉親の相次ぐ死亡と貧窮のなかで、吾郎の心の中には次第に絵心が芽生え始めました。
ついに38年、倉田白羊の門下生となり石膏デッサンを学ぶことで画家としての第一歩を踏み出します。続いて翌年、姉の補助で白馬会研究所へ入会、40年には太平洋画会研究所に移籍します。その時共に学んだ仲間には広瀬嘉吉、中原悌次郎、中村彝などがおり、特に彝とは無二の親友になりました。
|
〜写生行脚〜
吾郎は以後65年間の画家生活の大半を写生の旅に費やします。その始まりは明治44年の東海道行脚の写生旅でした。そして翌年には朝鮮、大正6年にはロシア、7年にはハルピンへ渡ります。中には新聞、雑誌社の仕事として現地へ赴いたものもありましたが、その根本にあるのは絵への情熱でした。吾郎は人間、自然、動物とその画心を動かすもの全てをモチーフにし、様々な“生”を描き続けました。 |
〜明と暗〜
 |
|
「盲目のエロシェンコ」 |
大正9年、奉天で親友 彝からの伝言を受け取り帰国。彝の住居近くの下落合に家を借り、画家生活を始め、9月、目白駅で盲目の詩人 エロシェンコと運命的に出会います。そしてエロシェンコの気品ある風貌に惹かれた吾郎はモデルを依頼。彝のアトリエで吾郎、彝の競作という形で2枚の絵が誕生します。2枚は第2回帝展(1920年)に出品されましたが、話題になり賞讃されたのは彝の「エロシェンコ氏の像」。吾郎はこの作品によって初めて帝展に入選したのに対し、彝は第3回の文展(1909年)初入選以来「少女」など話題作を制作し、この頃すでにかなりの地位にいました。共に尊敬しあいながら切磋琢磨した2人は大きく明暗を分けてしまうことになりますが、二人の友情はこれにより壊れることはなく、4年後の彝の死に際しては、吾郎は大きな悲しみをうけました。
ちなみに、彝の「エロシェンコ氏の像」は東京国立近代美術館に、吾郎の「盲目のエロシェンコ」は中村屋にそれぞれ所蔵されています。 |
〜再び写生の旅へ〜
その後、第5回帝展には落選するも、第6回から第10回までは入選を果たします。そしてこの頃から写生の旅が再び始まります。昭和3年四国、5年朝鮮、満州、ソビエト、ラトビア、フィンランド、スウェーデン、ドイツ、フランス等、7年ハルピン等、10年樺太、北海道等、世界各国を巡ります。中には、第二次世界大戦の従軍画家として参加した取材活動を含んでいるものもありますが、行動力と熱意がなければこれだけの行脚はできませんでした。そして、妻や子を日本に残したまま、貧窮状態の行脚を続け、“絵を描く旅”に出かけた吾郎は、昭和44年、“人生の旅”を終えました。 |