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● 松井 須磨子
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〜演劇へのめざめ〜
松井須磨子(本名 小林正子)は、明治19年信州松代町清野に士族の五女として誕生。幼少期を養子先の上田で過ごし、明治34年、養父の死により実家にもどりますが、今度は実父が死亡。翌年上京し、姉の嫁ぎ先であった麻布の風月堂に身を寄せ、裁縫の学校に通います。そして一度の失敗を経て、明治41年俳優養成所で教鞭をとる前澤と再婚。前澤の勧めで文藝協会演劇研究所に通い、次第に演劇の稽古にのめりこむようになります。しかし、熱中する余り食事も作らない、亭主の着物も繕わなくなった正子に対し前澤は愛想をつかしてしまいます。 |
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〜芸術作品 松井須磨子〜
一方、抱月は須磨子との不貞関係を非難され、文藝協会を脱退。新しい劇団「藝術座」を立ち上げ、次々に興行を成功させます。そしてトルストイ作「復活」の上演では、須磨子が歌った「カチューシャの歌」が大ヒット。須磨子は大女優へと変身しました。 藝術性と営利の両立を目指す“二元の道”を唱えた抱月にとって、女優としての“須磨子”は欠かせない存在であり、須磨子も「女優松井須磨子こそが抱月の“二元の道”を体現できる、生きた芸術作品である」と自負していました。 |
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〜瀧太郎と正子として〜
女優として一人前になった須磨子をみて、抱月は他の座員の育成に取り掛かります。しかし自分だけを見て欲しい須磨子は、妬みからわがままをいったり他の役者を罵倒し、抱月を困らせます。須磨子にとって抱月自身と抱月が掲げる演劇が人生のすべてだったのです。そして須磨子は、「サロメ」の舞台で、サロメ役の須磨子が抱月に見立てたヨカナーンを独占することで、また、演劇の実力をアピールすることで、抱月にとっての自分の存在価値を高めようとしました。 しかし、大正7年11月5日、抱月は病死。役では抱月を独占できた須磨子も、“正子”として“島村瀧太郎(抱月の本名)”を独り占めすることは終に出来ませんでした。 そしてからっぽになった須磨子は、大正8年1月5日、抱月の後を追って34歳の若さで人生の幕を自ら下ろしました。 |
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