新宿中村屋
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秋田 雨雀

● 秋田 雨雀


〜盲目の父とエロシェンコ〜
 秋田雨雀(本名 秋田徳三)は、明治16年青森県の黒石町(現 黒石市)に、父 玄庵、母 まつの長男として誕生しました。父は産科医でしたが眼疾のため失明しており、子供の頃の雨雀は父の代わりに俳句の代書をしたり、医学書や科学書を読んであげたりもしました。また、自らの意思で聖書や近代日本文学を好んで読んだりする多感な幼年期を過ごし、感受性の鋭い少年に育っていきました。雨雀は生涯に渡って小説、戯曲、児童文学、日記などを書き続けましたが、その芽はすでにこの頃より育ち始めていたようです。
 早稲田大学卒業後、作家生活を送ったり新劇運動に参加したりした雨雀は、大正4年の初春、鬼子母神の森を散策していた盲目の詩人 エロシェンコに出会います。苦しい劇団運営のため絶望的になっていた雨雀は、盲目でありながらエスペラント運動を熱心に行っていたエロシェンコのひたむきな姿勢に打たれ、深い交流を持つようになります。勿論エロシェンコと親しくなっていく過程で父の影響は大きいものでした。雨雀33歳、エロシェンコ26歳の時でした。
〜土蔵劇場〜
中村屋の2階で開かれた
脚本朗読会(一番左が雨雀)
 エロシェンコを中村屋に紹介したのが秋田雨雀と神近市子でした。雨雀とエロシェンコが出会い、互いに啓発されたように、相馬黒光とエロシェンコの出会いもまた両者に大きな可能性を与えることになりました。当時、黒光はロシア文学に傾倒しており、エロシェンコと知己を得たことは黒光にとって大きな意味を持つことになります。黒光は彼を自宅に住まわし、ロシア語を習いました。
中村屋サロン脚本朗読会
 一方、黒光と雨雀は「朗読会の開催」という共通の目標を持っていました。 根っから演劇や朗読が好きだった黒光と、自分の作品が同志社大学で朗読されたのを機に自信をつけていた雨雀は、 中村屋の2階での朗読会の開催に意欲を燃やします。会の名前は雨雀の作品「土」にちなんで「土の会」。やがて試演することになり、平河町にあった相馬愛蔵、黒光の家の2階で行うこととなりました。建物が土蔵だったので「土蔵劇場」、劇団名は「先駆座」としました。観劇は会員制とし、申込み順で一番が島崎藤村、二番が有島武郎など名だたる名前が連なりました。 雨雀の作品が上演されたことはいうまでもありません。
 残念ながら「土蔵劇場」は関東大震災で建物が崩壊し、その幕をとじることになります。
〜明治・大正・昭和を駆け抜けた幅広い活動〜
 秋田雨雀といえばまず戯曲を思い浮かべますが、それにとどまらず、雨雀の活動は実に幅広いものでした。
 明治37年22歳で詩集「黎明」を自費出版、40年に小説「同性の恋」を発表し、早稲田文学新進小説家の一人として注目され、45年には戯曲「埋もれた春」を発表します。以後、戯曲をはじめ数多くの詩、小説、童話、随筆、評論などを書きました。また、劇作家、舞台芸術家としての一面も見せた新劇運動やエスペラント運動でも活躍し、明治・大正・昭和を幅広い活動で駆け抜けました。
 昭和37年その長い人生に幕をとじますが、文学界における雨雀の影響力ははかりしれないものがありました。
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