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● 内村 鑑三〜クリスチャン 内村鑑三〜近代日本のなかで、言論で、文学で、そして宗教で、それぞれ後世に残るものを書き記し、はかり知れない思想的影響を当時は勿論、今の時代になっても色濃くのこしている人物、それが内村鑑三です。中村屋の創業者 相馬愛蔵も鑑三から思想的影響を受けた者のうちの一人で、商売の基礎を形成し、商人としての道を築くのに充分な薫陶を受けたといえます。明治・大正・昭和とながきにわたって個人雑誌を発刊し、万朝報にも論文を載せ、「非戦論者」として有名を馳せた鑑三は中村屋の経営にも大きな役割を演じることになったのです。 |
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〜その生涯〜
内村鑑三は1861年、上州高崎藩の江戸屋敷で父 内村宣之、母 ヤソの長男として生まれました。鑑三は5歳の時から「大学」の素読をさせられており、とても聡明な少年でした。そして明治6年単身上京、有馬私学校英語科に入学、翌年には東京外国語学校(英語科)に編入をしました。肋膜を患い1年休学し学校に戻ると新渡戸稲造、宮部金吾らがおり、生涯の友となります。この3人は英語が上手になるため日常を英語で話すこととし、日本語を口にしたら、五厘の罰金を払うことにした、というエピソードもありました。明治10年には3人とも札幌農学校にすすみ、そこで更に英語能力を高めていきました。鑑三は農学校時代の北海道と、明治18年渡米し入学したアマスト大学の2ヵ所で若き日の人間形成をなしたといえます。鑑三は後々まで北海道を「心の故郷」とし、ことあるごとに札幌の地を踏んで、自分を見つめ直すことをしています。明治21年帰国、新潟、東京、大阪と各地で英語教師をしながらキリスト教宣教活動を行いますが、明治24年には有名な「不敬事件」を起こします。この後鑑三は二度と官職につくことはなく、生涯を講演と執筆、キリスト教布教に捧げました。 |
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| 〜相馬愛蔵とのかかわり〜
中村屋が開店して間もない明治36〜37年頃、中村屋の近くの食料品店が安売りをして、とても繁盛していました。このお店は洋酒を仕入れ原価の2倍近い価格で販売することで利益を得、その他の商品を安売りしていました。中村屋創業者 相馬愛蔵もこの仕組みに心を動かされ、洋酒販売を行うこととします。販売開始そうそう内村鑑三が来店『私はこれまであなた方のやり方には悉く同感で、陰ながら中村屋を応援してきました。その中村屋が今度悪魔の使者ともいふべき酒を売るとは…私はこれから先御交際が出来なくなりますが。』『酒を売るやうではあなたの店の特色もなくなります。あなたとしてもわざわざ商売を選んだ意義がなくなりませう。』(『一商人として』相馬愛蔵著 原文のママ)と強く戒められます。愛蔵は面目次第がない旨お詫びし、ただちに販売を中止します。また当時、月1回、場合によっては盆暮れしかなかった「お店の休み」を週1回、日曜日定休にしてはとも勧められました。日曜礼拝をするためです。残念ながら即実施するには至りませんでしたが、愛蔵の胸には週休という言葉がしっかりと刻まれることになりました。 |
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鑑三は「無教会主義」を提唱したり、「非戦論者」として有名ですが、一方では「禁酒」にも積極的に参加していたことが判ります。 また個人雑誌「聖書之研究」は明治33年に創刊され、昭和5年、死に至るまで続き、晩年にあってはこの雑誌と日曜日の聖書講義だけで生活を支えてきました。 昭和5年、心臓病でその生涯を閉じました。 |
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