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● 高村 光太郎〜詩人ではなく彫刻家〜高村光太郎といえば『智恵子抄』『道程』などの詩が教科書に掲載されるほど有名で、詩人のイメージがあります。しかし、その本質は彫刻家であり、詩の作成は、彫刻から文学的なものを排し、造型の理想を追い求めるためになされました。光太郎がそこまで彫刻に執着する背景には、偉大な彫刻家である父との確執がありました。 |
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〜幼年、青年期〜
明治16年、高村光太郎(本名 みつたろう)は父 光蔵、母 わかの長男として生まれました。父は仏師であり、明治・大正時代を代表する彫刻家でしたが、帝室技芸員として、また東京美術学校の教師として体制側にいる古いタイプの芸術家であり、光太郎が志したロダンに代表される新たな芸術の反対にありました。このことが一つの原因となり、後日、光太郎は父に対して鬱積したものを持ち続けるようになります。 光太郎は5〜6歳の頃から、父にもらった小刀で彫刻のまねごとを始め、15歳の時、父が教壇に立つ東京美術学校予備の課程に進みました。翌年には本科へ進み、彫刻の道を目指すことを本格的に決意。しかし、彫刻の道を選んだことで、その道の先達としての父への負い目、抵抗を終生ひきずることになります。明治35年、20歳で同学校を卒業し、その2年後ロダンの作品と初めて出会います。その後、22歳の時ロダンの彫刻写真『考える人』を見て衝撃を受けた光太郎は、父への反発も含めて傾倒。ちょうどこの頃、荻原碌山もかの地、フランスでロダンの『考える人』の実物を見て感激、本格的に彫刻の世界で生きていく決意を固めています。 |
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| 〜碌山との出会い〜
日本でのロダンの紹介が“日本の彫刻が近代の扉を開くカギとなった”といえます。そしてこのカギは碌山と光太郎の2人によってもたらされたと考えられています。碌山は主に自らの作品から、光太郎はもっぱら文筆活動によってロダンを追求しました。共にロダンから受けた感銘は大きく、そのことは2人の残された書簡、日記などから充分伺い知ることが出来ます。 光太郎は明治39年、24歳の時自費で渡米。ニューヨークで柳敬助、荻原碌山と初めて出会います。この年碌山は渡仏し、光太郎は翌年イギリスに、更に翌々年にはフランスに移り住みます。碌山との親交を得、また将来の伴侶となる智恵子との縁を結ぶ柳敬助との出会いがここにありました。明治42年帰国後、光太郎は碌山との縁で中村屋にも出入りし、碌山との仲はより一層深いものになっていきます。そして翌43年、光太郎は日本で初の画廊琅かん洞を開き自分の作品をはじめ、碌山や柳、斉藤与里の作品を展示し弟に経営を任せますが経営は失敗、しかし新たな試みとして評価されます。この年碌山が亡くなり、関西旅行中の光太郎はすぐに帰京、その死を悼みました。 荻原守衛の題名で光太郎は詩をよみ、また後年「荻原守衛の首」と題した彫刻にかかります(未完)。 |
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| 〜智恵子との出会い〜
柳敬助の夫人、八重の紹介で女性雑誌『青踏』の表紙絵を描いていた長沼智恵子と出会い、大正3年、33歳の時光太郎は彼女と生活を共にします。ちょうどこの年、最初の詩集『道程』を出版、詩の世界でも頭角を表します。 智恵子は昭和13年53歳で没しますが、その半生は精神病と肺結核との戦いでした。有名な智恵子抄は3年後の昭和16年発行されました。 |
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