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● ラス・ビハリ・ボース〜少年期〜ラス・ビハリ・ボースは、1886年ベンガル州ブルドワン郡に、政府新聞の書記をしている父 ビノデ・ビハリと母 ブボネンショリの長男として生まれました。家は代々武士の階級(インド4階級の第2番目)でした。幼少は母方の叔父のもとで育ち、その後シャンデルナゴールへ、続いて父の転勤でカルカッタへ移り、再び父の転勤があると叔父の家へと移り住み、転々とした生活を送ります。このような家庭環境からくる淋しさや不満が、ボースの革命精神をより増強させていったのです。 |
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〜革命家へ〜
ボースの中の革命家精神を目覚めさせたのは、学生時代、当時の新刊で革命に燃える青年達に広く読まれた『サラチャンドラ』でした。その本に書かれたインド兵反乱に血を湧き立たせ、ボースは学業を捨てインド兵になることを志願。そして、ウイリアム要塞司令官に入隊を志願しますが、ベンガル人は志願兵として登録出来ないとの返事を受けてしまいます。その後も志願し続けて行動に移すも失敗し、結局父の強制で森林調査官に任官します。しかし、この森林調査官という職務は革命活動におおいに利用できるものでした。赴任先がグルカ兵輸送の中心地や所在地であったため、兵士に革命思想を叩き込むことで運動を拡大させることができ、また、勤勉な官吏として行動していたため、1912年デリーにおける総督爆殺計画を決行してもしばらくは疑われることなく、逆に警察が革命党員の行動内偵をボースに依頼するほどでした。 しかし、2年後の1914年にはデリー事件でのボースの主犯が判明、ボースの首には12,000ルピーの懸賞金がかけられます。そして1915年のラホールの反乱も密告により失敗。身の危険が迫る中、ボースは武器を入手のため日本に渡ることを決意、詩聖タゴールの渡日にまぎれて、タゴールの親戚として来日します。 |
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| 〜相馬夫妻との運命の出会い〜
1915年6月、神戸に着いたボースの以後の行動は分かっていません。ただ東京で中国の革命家孫文や、大アジア主義を唱えた「玄洋社」の頭山満らと会い、親交を深めていくことになります。 しかし、当時の日本はイギリスと日英同盟を締結しており、イギリスのお尋ね者であるボースには国外退去命令が下ってしまいます。同年の12月でした。官憲の尾行がついたボースは頭山邸から変装し、警官の目を欺き逃亡します。そして逃げ延びた先が中村屋でした。それから相馬夫妻は4カ月間命がけでボースを匿います。ちなみに、この間にボースが相馬夫妻にカリーライスを作り振舞ったのが縁となり、中村屋は昭和2年「純印度式カリーライス」を発売します。 この後約4年間、日本政府、英国政府の追及が続き、10数回にもわたり隠れ家を移り住む逃亡生活が続きますが、行動をともにしたのは相馬夫妻の長女、俊子でした。大正7年に2人は頭山満の媒酌で結婚しますが、逃亡中のことで隠れて行なわれました。同年、第一次世界大戦が終結したことを受けイギリスによるボース追及が終わり、一家は中村屋敷地内に新居を立て生活します。 残念なことに翌年、俊子は肺炎で亡くなります。享年27歳の短い生涯でした。 ボースはこの後、大正12年には日本国籍を取得し、インド独立運動に邁進。もう1人のボース、チャンドラ・ボースとも手を組みその活動は東南アジア諸国に及びます。 |
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| 〜晩年〜
ラス・ビハリ・ボースは昭和20年1月21日、インドの独立を見ることもなく亡くなり、ボースと俊子の長男 正秀も日本陸軍戦車隊の一員として沖縄戦を戦いこの年6月に戦死します。また、チャンドラ・ボースも8月19日、台湾上空で航空機事故に遭い共にインド独立を見ることなく亡くなります。 2人のボースが一生を捧げたインドの独立は2年後の1947年、インド国民の蜂起により果たされました。 |
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