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戸張孤雁
井口 喜源治

● 井口 喜源治

〜キリスト教へのめざめ〜
 井口喜源治は明治3年、長野県南安曇郡穂高町に、父 喜十、母 こんの長男として生まれました。3歳の時に母を亡くし父と祖母に育てられますが、明治9年に穂高の保等小学校、17年に松本尋常中学校へ進学し、学識を高めていきます。また、この中学校時代に、英語教師であった米国人宣教師エルマーより教えを受け、キリスト教に開眼。その後、明治法律学校へ進学しますが、しばしば牛込教会に通ったり、内村鑑三、厳本善治ら宗教家・宗教的教育家に会い、教育の道に興味を持つようになります。そしてついに明治23年、学校を中退し、上高井高等小学校小布施分校の教師となりました。
〜井口喜源治と相馬愛蔵〜
 明治25年には松本尋常高等学校に教師として招かれるなど、順調な教師生活を送っていた喜源治は、26年の結婚を機に、東穂高高等小学校に転任。そこで、相馬愛蔵らが創立した東穂高禁酒会に入会します。喜源治は精力的に活動を行い、東穂高禁酒会の運動は次第に村の若者達に広がりますが、思わぬ事態が生じてしまいます。教え子の中からキリスト教を信仰するものが続出したため、喜源治は、校長、その他の教員たちから排斥されてしまったのです。原因は、当時の田舎ではキリスト教はヤソと言われ毛嫌いされていたことと、喜源治が教壇を使って生徒達に布教活動をしたと思われたこと。実際は、生徒達は喜源治の人柄に傾倒し、自発的にキリスト教を信仰したまででしたが、言い分は受け入れられませんでした。そこで喜源治は自ら辞表をたたきつけ、教職を去ることを決意しました。
 ことの成り行きを心配した愛蔵は、親友のために研成義塾という私学校を村に起こします。そして喜源治をその塾頭にし、キリスト教的教育に没頭できる道を創ったのです。明治31年のことでした。
〜研成義塾〜
 研成義塾は、初めは区の集会所を借りた生徒11人の小規模なものでしたが、2年後、愛蔵らの支援により本科教室と裁縫室、応接室のある新校舎が建てられました。また、内村鑑三は何度も義塾を訪ね講演などを行い、喜源治に深い理解と高い評価をおくります。喜源治を支えたものはまさしく、経済的には相馬愛蔵であり、精神的には内村鑑三でした。
 義塾は、一.家庭的ならんこと、一.永遠の感化、一.天賦の特性を発達せしめんこと、一.宗派のいかんに干渉せず、一.新旧思想の調和、一.社会との連絡に注意す、をモットーとし、ここから多くの逸材が育ちます。昭和13年、喜源治が亡くなる年まで続いた義塾の卒業生は800名近くにのぼり、朝日新聞の自由主義評論家 清沢冽やワシントン靴店店主東条氏など、評論家、実業家、芸術家、学者として名の知られた人もいましたが、多くは地域にとどまり、謙虚・誠実・勤勉な文明人としてその一生をおくりました。

研成義塾創立当時の禁酒会グループ
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