「お客さまがされたら嬉しいこと」を常に考える

新宿中村屋ビル 飲食統括マネージャー 中山義則

アルバイトが正社員に登用され、新宿中村屋の中核を担うようになる。中山義則も、そのうちのひとりだ。大学時代に中村屋の「ルパ」でアルバイトを始め、現在は最上階の「グランナ」と地下2階の「マンナ」の統括マネジャーを務める中山に、サービス業の本質と醍醐味を聞いた。

サービスとは“いかに気が利くか”

「照れ屋で、人と接することが苦手だったんです。でも、その苦手を克服したいなと。中村屋であれば親も安心するかなと思って、応募しました」

大学入学を機に一人暮らしをしていたころのことだ。酒類販売免許の段階的な規制緩和により、両親の営む酒屋の経営が厳しくなった。中山義則は親の負担を軽くしようと、アルバイトを始める。

最初は新宿住友ビルにあったレストランの厨房で。次に新宿中村屋の「ルパ」のフロアで。キッチンからサービスへと鞍替えしたのは、先の「苦手の克服」が主な理由だった。

当初の希望は募集の貼り紙に書かれていた地下の喫茶「マ・シェーズ」。しかし、面接の担当者が、中1から高3までバスケットをやっていたという中山の体力に目をとめ、2階のルパに決まった。

1997(平成9)年当時のルパは多忙を極めた。席数は160あり、昼時にはインドカリーを求めて、4階まで列が伸びる。従業員も大所帯で、早番は80人近く、中山が主に働いていた17時〜22時勤務の遅番だけでも36人いた。

「サービスといっても、最初の3カ月間は料理を運んで下げるだけでした。早く次の仕事を覚えたかったのですが、誰も教えてくれなくて。ゴールデンウィーク中にシフトをがっつり入れて、先輩を捕まえてハンディ(オーダー用端末機械)の使い方を教えてもらったり。目の回る忙しさでしたが、フロアは同世代が多く、大学のサークルみたいに和気藹々だった。仕事自体もどんどん好きになりました」

中高生時代は自動販売機に飲料を補充したりタバコを販売したりと、実家の酒屋を手伝っていたというから、顧客に対する挨拶や礼儀は自然と身についていたのだろう。そのうえ、後輩を指導する立場になって熱意と責任も併せ持ち、大学4年次には学生アルバイトのリーダー格となっていた。

このころすでに中山は「サービスを妥協しないで追求する」という姿勢を貫いている。

「サービスとは“いかに気が利くか”なんです。お客さまが求めていることは何か、目を見開き、耳をそば立て、さっと応えること。そのため、お客さまのテーブルや表情はよく観察していました」

スポーツ紙の記者を目指していたが、就職活動が難航し、卒業後も中村屋のアルバイトを続けた。気持ちを腐らすことなく、店の課題を見つけてはマネジャーに進言もしていたという。

「例えば、おふたりのお客さまに対して料理が一緒に出てこないとか、インドカリーだけがやたら早く出てくるとか、自分が客側だったら絶対に厭だなと思うことが多々あったんです。それで他のアルバイトリーダーと三平という居酒屋で呑みながら、どうしたら解決できるのか、よく話し合いましたね」

そのような人材を上が放っておくはずもない。中山は契約社員にならないかと声をかけられる。その話を聞いた父親が、初めて中村屋のインドカリーを食べに東京・新宿までやって来た。「授業参観みたいですよね(笑)。父親がカレーを食べている姿なんて見たことがなかったので心配でしたが、おいしそうに食べていたので安心しました」。

安心したのは父親も同じだったに違いない。2002年、27歳になる年、中山は契約社員になった。

お客さまの顔を思い出しながら宛名を書く

長男として実家の酒屋を継ぐべきか悩んだ時期もあった。だが、父親の後押しもあり、31歳で正社員に。東館の「オリーブパヴィヨン」でサブマネジャーとして1年半働いたのち、念願のマネジャーとして本店5階の「レザミ」へと異動した。

レザミは、それまでの大衆的なファミリー層向けの店とは違い、中華とフレンチのコース料理を専門とする個室のみの店だった。客層は一変し、客単価も5倍近い。「これまでとは求められるものが違う」と感じた中山は、休日となれば評判のフレンチレストランや中国料理店に通い詰める。

「ハイアット リージェンシー 東京の『翡翠宮(ひすいきゅう)』のランチとか、珍しいコース料理の出る特別賞味会とか、よく行きましたね。でも、一番学べたのは、レザミの厨房で料理長の調理を見ること。最初は邪魔者扱いでしたけど(笑)、やる気が伝わったのか、次第にいろいろと教えてくれるようになりました」

千葉県柏にある中国料理「知味斎(ちみさい)」ではその料理長にばったり出会い、「自分でお金を払っているのか? ちゃんと会社に請求しなさい」と言われたこともある。自分の奮闘を認めてもらっているとわかった瞬間だった。

レザミは中村屋の幹部やOBもよく利用していた。そういった重鎮たちからどんな話題を振られても返せるよう、中山は資料などに目を通して中村屋の歴史も頭に叩き込んだ。「中村屋のクラシックな原点をじっくり学べるよい時間でした」。

レザミで2年半働いたのち、4階の「ラ・コンテ」へと異動。ラ・コンテは、昼がカレーのバイキング、夜がパブ営業という特殊なスタイルの店だ。二次会利用の酔客が多く、最初の1週間はこれまでとは違う苦労を感じた。

「ラ・コンテにはボトルキープという制度があって、カウンターに座るお客さまというのは、そのボトルキープをされている常連の方々が多かったんです。古参のスタッフはその方々ばかり気にして、テーブル席のお客さまをなおざりにしていた。これではいけないと、改善に努めました」

中山はテーブル客に対して、自ら酒を運んで水割りなどをつくった。人それぞれの好きな酒や飲み方などを覚えるためだ。

「例えば1杯目は薄めの水割りで、2杯目からは少し濃いめでつくるとか、お客さまの好みをぜんぶ覚えたんです。最初は『マネジャーなんて偉い人が来なくていいよ』『つくらなくていいよ』と言われるんですが、やっぱりだんだんと嬉しく感じていただけるんですよね」

キープボトルは200本以上あったが、どの棚に誰のボトルがあるのか、位置はすべて把握した。2カ月に1度送付するダイレクトメールも、自らすべて宛名書きした。「お客さまのお顔と飲み方を思い出しながら書きました。それも記憶を定着させるよい方法でしたね」。

ラ・コンテで長く勤務していた年配の女性ふたりからは「こんなに働くマネジャーは初めて!」と言われたという。マネジャーの率先する姿は、周りのスタッフの熱意を引き出す。店の活気や行き届いたサービスは、来店客を足繁くさせる。ラ・コンテはたちまち繁盛した。

その日からみなカリーポットを磨き始めた

「インドカリーのカリーポットをみんなちゃんと磨き出したんですよ。水垢なんてまったくない、ピカピカの状態になるまで」

2011年秋、新宿中村屋本店の建て替えがスタートし、中山は新宿高島屋内の店舗へと異動が決まった。ラ・コンテのマネジャーとして職場の雰囲気を改善し、売上にも貢献してきた手腕が買われてのことだった。

百貨店は同年3月に起きた東日本大震災の余波で、どこも厳しい状況にさらされていた。新宿高島屋13階レストランズパークにあった「新宿中村屋オリーブハウス」も例外ではなかった。店長として働き始めてすぐ、中山は高島屋サイドから呼び出された。接客覆面調査の結果、レストランズパーク35店舗(当時)中、オリーブハウスの順位は最下位に近かったのだ。

確かに接客が作業的だと感じていた中山は、早速アルバイトの採用にとりかかる。力を注いだのは、初期トレーニング。その際、2009年に開催された「中村屋本店100年展」で配布した冊子を利用して、純印度式カリーの生まれた歴史的背景をみなに知ってもらった。

「なんと言ってもインドカリーは“新宿中村屋の心臓”ですし、歴史的背景を知っているのと知らないのとでは、接客にも大きく差が出てしまう。それをまずは知ってもらったうえで、『長期休みなどを使って全国から食べに来られるお客さまにとって中村屋のインドカリーは一生に一度の食べ物かもしれないから、そういう気持ちで提供してください』と伝えました」

アルバイトたちはインドカリーのカリーポットを丁寧に磨くようになった。作業的な接客しかできなかった古参のパートたちも、同じように変わっていった。接客覆面調査も、中山の異動から2年で2位に、翌年は1位まで登り詰めた。

高島屋での6年半を振り返り、中山は「本店にいたときより中村屋の人間だということを意識するようになった」と言う。

「お客さまは、私のことを高島屋の従業員だと思いますよね。それで『東急ハンズは何時までですか?』とか『高島屋カードのカウンターがあるのは何階ですか?』などと尋ねられるわけです(笑)。でも、高島屋の従業員が知っているようなことまできちんと答えられたら、数あるレストランの中でも飛び抜けた存在になるだろうと思って。最終的には私だけでなく、アルバイトやパート全員が答えられるようになりました。高島屋について何でも答えられること──それはつまり、中村屋の人間としての誇りだったと思います」

現在、中山は最上階の「グランナ」と地下2階の「マンナ」の統括マネージャーに従事する。大学生のアルバイト時代から現在までの約25年、妥協せずにサービスというものを突き詰めてきた中山に、あらためて「サービスの原点とは?」と尋ねると、シンプルかつ最良の答えが返ってきた。

「自分がお客さまの立場だったとして、されたら嬉しいことをするだけです」

※高島屋の「高」は常用漢字で表記していますが、正しくは「はしごだか」です。

※所属、役職名などはインタビュー当時のものです

ライター:堀 香織(ほり・かおる)
ライター/編集者。雑誌『SWITCH』編集部を経て、フリーに。雑誌『Forbes JAPAN』、「Yahoo!ニュース特集」ほか、各媒体でインタビューを中心に執筆中。単行本のブックライティングに是枝裕和『映画を撮りながら考えたこと』、小山薫堂『妄想浪費』など多数。鎌倉市在住。
https://note.com/holykaoru/n/ne43d62555801