新しい理念に込めた、新宿中村屋の進むべき道

代表取締役社長 鈴木達也

入社後、原価計算に秘められたクリエイティビティに目覚め、その後の27年間、商品企画に情熱を燃やしつづけた鈴木達也。61歳で社長に抜擢されたときは「青天の霹靂」だったと振り返る。「腰は低いがやることは大胆」と称された鈴木に、商品企画を担当したマーケティング課時代の挑戦、社長就任後の大胆な社内改革について聞いた。

商品企画は数え切れないほど失敗した

子どものころから慣れ親しんだ味というのが、その後の実人生に大きく影響することがある。鈴木達也の家の最寄駅には、新宿中村屋のNC店(フランチャイズチェーン店)があり、学校帰りに中華まんや菓子をよく買って食べたそうだ。

「他のスーパーで売っているものより、なんだかおいしいなと。もともと甘いものを含めて食べるのが好きでしたが、その幼少時の記憶が縁となり、中村屋に就職しました」

配属は経理部の原価管理課。最初の2年は生産現場の計数管理、次の2年は商品の原価計算を担当した。これが「偶然の始まり」と鈴木は言う。

「新しい商品企画の原価計算をするのが仕事なのですが、商品企画担当の予想価格でつくれることって滅多にないんです。それで、原材料を変えるか、大きさを変えるか、製法を変えるか、またはたくさんつくるのか、いろんな選択肢の中から最良の方法を考え、提案し、最終的な価格調整をするのがすごく面白かった」

どんなにおいしくても、買う方が「高い」と思えば買ってもらえない。鈴木曰く「いちばん売れる値段」、つまり適正価格を目指して試行錯誤するところに、一種のクリエイティビティを感じたのだろう。上層部はそれを見抜いたのか、入社5年目にして商品企画を行うマーケティング課へ異動となった。

「失敗は数え切れないです。売れないものもたくさんつくったし、既存商品の企画変更で多額の損失を出したことも。商品企画のお金の使い方で言うなら、たぶんトップクラスの無駄使いをしたと思います(笑)」

例えばおはぎの新企画。鈴木は、当時一般的だった「こし餡」と「つぶ餡」以外の目新しいものをやろうと考えた。

「世の中を見渡すと、胡麻やらきなこやら抹茶があるわけです。それでうちでもと思って試作すると、専務に『この抹茶のおはぎは食べられないよ』と言われて。『熱意は認めるけれど、新宿中村屋というブランドから外れたら駄目なんだ』と諭されました」

専務の言葉の真意を、鈴木はほどなく理解した。中村屋は「おいしくてポピュラーになるもの」を追求するブランドである。いろいろな餡を使ってバラエティに富めばいいというものではない。食べ慣れないものがお客様に「おいしい!」と思っていただける味に到達していてこそ、新宿中村屋の新商品なのだ。そう理解した鈴木は、単なる餡の置き換えではなく、周りに胡麻やきなこをつけるなど工夫を重ねた。企画は認められ、新商品として店頭に並んだ。

また、「大福が大好き」という鈴木は、それまで60円で販売していた大福の味に満足できず、原材料を変えてよりおいしいと思えるものをつくった。

「ついた値段は120円。試作の会議で先輩から『大福で120円って、庶民の敵だよ』と言われましてね。その言葉はいまも鮮烈に心に残っています」

この先輩の指摘も専務の言葉同様、鈴木の企画そのものを否定したわけではない。「その時々の市場やお客様に合った値段を考えることの重要さ」を伝えようとしたのだ。その後、社内で議論が続けられ、最終的には鈴木のおいしさへのこだわりが認められて、大福は120円で発売された。

同じころ、和生菓子の好きな当時の副社長から「車に乗れ」と言われ、都内から鎌倉まで、団子、おしるこ、あんみつなど専門店を何度もハシゴして回った。実家が和菓子店を営む女性社員からは、新しい店の味見に誘われたり、和菓子の技術に関する知識を直伝で教わったりした。

同世代から少し上の先輩が集まって自由闊達に意見を言える企画会議と、さらにその上の世代から目をかけてもらえること。そのふたつがまるで燃料投下のように鈴木の味を追求する姿勢に火をつけた。

釣れないときはすぐ、どうしたらいいかを考える

商品企画で大成功した経験ももちろんある。おはぎ、桜餅、鹿の子、それぞれ12個入りのパッケージ商品だ。

「普通、おはぎはお彼岸しか売れないし、桜餅は春にしか売れないんです。でも、あんなおいしいものを他の時期に食べないのはもったいないなと思って」

おはぎは、通常より小さいサイズのつぶ餡、こし餡、ごま餡をそれぞれ4つずつ。桜餅は、長命寺(関東風)、道明寺(関西風)、草餅をそれぞれ4つずつ。価格は1箱500円で、店頭に並ぶそれらの箱は目にも鮮やか。年間を通して飛ぶように売れたそうだ。

東京駅や羽田空港、高速道路のインターチェンジで販売される、いわゆる「東京土産」に進出したこともあった。最初はカリーパンや大福、月餅などをパッケージ化して販売したが、売れなかった。そこで、チョコレートを焼いた焼き菓子をつくり、「東京ショコラトリー」という土産専用のブランドを立ち上げて販売した。

「中村屋はもともとチョコレートの工場を持っていて、パウンドケーキなど洋菓子も売っていた。それで東京土産を売る自由な場所なら洋菓子で攻めてみようと。負けない自信はありました。中村屋には資本力があるし、アイデア勝負なら社員の自分たちが頑張ればいい。みんなが新しいことを考え、小回りきかせてやれば、まだまだ中村屋はいけるんだと信じていました」

開発途中で役員から「まだ続けるのか」という叱咤もあったが、最終的に東京ショコラトリーは大成功を収めた。

ところで、鈴木の趣味は「釣り」だ。大学時代から没頭し、マーケティング課に入るまではずっと続けていた。釣具屋主人になることを夢見たこともある。

「釣れないときにどうしたらいいかを考えることと、売れないときにどうしたらいいかを考えることというのは、すごく似ているんです。釣れないときって、餌を変えるのか、場所を変えるのか、すぐに判断し、決断しないといけない。気長に待っていたところで、魚のまったくいない場所かもしれないし、とにかくポジティブに動くことが大事。いろいろとできる限りの手を尽くしてみて、それでも釣れないときは、諦めると。つまり短気でないとできないし、心の余裕がなくてもできないのが、釣りなんですよ」

中村屋の新しい味づくりへの貪欲さに、釣りに向いたその気質をもつ鈴木がいずれ社長に抜擢されるのは、当然のことだったのかもしれない。

インドカリー、中華まんに続く、100年続く商品を。

2009(平成21)年、鈴木は執行役員に就任し、経営企画部門を担当。2014年の本店建て替え事業に携わったのち、翌年の2015年に社長に就任した。

鈴木が目指したのは、「働いている人が喜び合える企業」だ。そのために取り組んだ大きな事業がふたつ。インフラの整備と、理念体系の刷新である。

鈴木はまず、「食」という本業に集中するための不動産ビルの売却、子会社の吸収や譲渡、遊休資産の整備などに取り掛かった。本店建て替え事業で培ったノウハウがここで活きた。

「自分の任期中に絶対にやらなければいけないと思ったのが、笹塚の本社オフィスの引越し。元の躯体は40年超えで、耐震基準も昔のものだったため、東日本大震災ですごく揺れたんです。従業員や近隣の安全を守るために早く手を打つべきだと考えました」

また、埼玉県入間市の武蔵工場を新築し、生産機能の再編を行った。

「コスト競争ができるよう、何より従業員が快適に働けるよう、できるだけ最新の工場にしたい。そして、お客様にとっておいしいものを、魅力ある価格で提供したいですね」

理念体系の刷新については、鈴木自身の葛藤が大きい。

「正直言うと、マーケティング部長だったときに日持ちの関係でおいしくないと思うものを出したことがあるんです。例えば2週間はおいしいお菓子があっても、売りやすくするためには1カ月間日持ちさせたいとなってしまう。長持ちさせると流通を考えたときにお客さまに届けやすいんです。ただ、なんでもかんでも日持ち優先になると、おいしさは担保できなくなる。おいしさと日持ちはいまだに悩んでいます」

そのバランスは非常に難しく、安易に日持ちを優先しておいしさが保てなければ、長期的には買い手は離れていってしまう。だから、共通の判断軸となるものが必要になる。社長となったいま、この葛藤に向き合うためにも、理念を刷新することにしたという。

創業120周年を機に掲げられた「中村屋の約束(ブランドステートメント)」は、「変わらない『おいしい』を、いつもあたらしく」。続くボティコピーには「時代と共に変わる味覚やくらしに合わせて創意工夫し、日々、おいしさをあたらしくしていく。」と書かれている。

「社員が迷ったときに立ち返れる旗印のようなものをもたねばと、ずっと感じていた。ただ、ビジョンは“絵に描いた餅”になってはおしまいです。全社が一致団結してこの姿に向かい、みんなが幸せになれる企業を目指す。それが私の最低限守るべき約束だと思います」

インフラの整備は多額の投資を要することから大きな経営判断が必須であり、理念体系の社内浸透も時間が必要だ。短期的な利益だけを考えたらできることではない。鈴木は「土台を変えながら業績を回復する」日々にいまも邁進している。

最後に鈴木は社長としてではなく、自身が心に秘める目標を打ち明けてくれた。

「中村屋の主力商品は、インドカリー、中華まんと、創業者が発案したものばかり。120年続く中で、それらがいまでもメインを張っていること自体には創業者や諸先輩の偉大さを感じますが、一方でそれじゃ情けないよ!と個人的には思っているんですよ。やっぱり最後に違うものをつくりたい。創業者と違うもので、3番目の柱となる、100年続く新しい商品をつくりたいぞ!って(笑)」

27年も商品企画に携わった鈴木の内なる野望は、釣具屋主人になる夢を上回るほど、本人の心をとらえているように見えた。

※所属、役職名などはインタビュー当時のものです

ライター:堀 香織(ほり・かおる)
ライター/編集者。雑誌『SWITCH』編集部を経て、フリーに。雑誌『Forbes JAPAN』、「Yahoo!ニュース特集」ほか、各媒体でインタビューを中心に執筆中。単行本のブックライティングに是枝裕和『映画を撮りながら考えたこと』、小山薫堂『妄想浪費』など多数。鎌倉市在住。
https://note.com/holykaoru/n/ne43d62555801