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戻る 【ラス・ビハリ・ボースと純印度式カリー】

 中村屋は昭和2(1927)年6月12日にレストランを開設します。そのメニューに純印度式カリーがありました。純印度式カリーの発売は、インド独立運動の志士 ラス・ビハリ・ボースと相馬夫妻との出会いに始まります。

 ボースは明治19(1886)年、インド ベンガル地方に生まれました。当時、イギリスの統治下にあったインドでは独立の気運が高まっており、ボースも独立運動に身を投じます。その活動は熱心で、大正元(1912)年にはデリーでイギリスのインド総督に爆弾を投げつけ、イギリス政府から厳しい追及を受けます。そこでボースは亡命を決意。同じベンガル出身の詩人 ラビンドラナート・タゴールがアジアで初のノーベル文学賞を受賞し、その記念で訪日する情報を知り、タゴールの親類を装って亡命を果たします。大正4(1915)年のことでした。

 日本でボースは孫文と知り合い、その紹介で頭山満の知遇を得て潜伏生活をします。しかしそれがイギリス政府に伝わり、日英同盟を結んでいた日本政府は国外退去命令を出します。退去日の前日に頭山から依頼を受けた相馬夫妻は、ボースを中村屋のアトリエに匿います。一商店が政府の意に反して亡命者を匿うことの危険は計り知れないものでしたが、中村屋の従業員全員が団結し、保護にあたりました。

 翌年、日本政府はボース保護に方針転換しますが、イギリスからの追及は続きます。ボースは逃れるため隠れ家を転々としますが、この時、逃亡生活を支えたのが相馬夫妻の長女 俊子でした。二人は後に結婚し二人の子供をもうけますが、俊子は逃亡生活の心労がたたり、大正14年、26歳で早逝します。

 俊子の死後も中村屋との交流を深めたボースは、昭和2年、本物のカリーを日本に紹介したいとの思いから、中村屋の喫茶部の開設とともに純印度式カリーを売り出すことを提案します。当時日本に広まっていたカレーはイギリスから伝わった、小麦粉を使用したものでした。
 材料を厳選し、スパイスをふんだんに使った本格カリーは、その発売のエピソードも手伝って評判を博します。町の洋食屋のカレーが10~12銭だったのに対し、中村屋のカリーは80銭でしたが、飛ぶように売れたとの記録が残っています。

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