インドカリーの一皿に映し出されたもの

総料理長兼チーフテイスター 二宮健

その人の話を聞くと、創業120周年を誇る「新宿中村屋」の歴史と文化がにわかに現出する。二宮健、85歳。1952(昭和27)年に16歳で入社後、中国調理、西洋料理各部門を経て、総料理長に就任。現在はチーフテイスターも兼任し、「インドカリー」の伝統の味を守り続けている。

独立するつもりが、「新宿中村屋一筋」に

戦前の中村屋には「少年店員制度」というのがあった。二宮は、その制度が復活した際の、第1期生だ。背の順に並んだ15人の少年たちは、身長の高い半分が販売部、低い半分が喫茶部に分けられ、二宮は販売を担当することになった。

「戦時中の満州で生まれた、五人きょうだいの長男でしてね。敗戦とともに帰国したんですが、直後に弟が死に、翌年に両親が立て続けに亡くなって。妹3人を養女に出し、この先何をすれば食っていけるのかを考えたとき、料理だとすんなり決められたんです」

1952(昭和27)年当時、店は新宿に1軒のみ。レシピは戦火により消失しており、創業者の長男で社長を引き継いだ相馬安雄夫妻が、伝統の味の再現に取り組んでいた。

また、ドイツでの留学経験があった安雄社長は「(創業はパン屋だったが)次はデリカテッセン*を目指す」と表明。売店のパン売り場には食パン、クリームパン、菓子パン、コッペパンなど20種類以上が並んでおり、二宮は食パンを切る包丁を毎日研いで帰った。

その姿勢が認められ、早々に喫茶に異動となり、日々「一人一業」を教わった。「一人一業」とは、ひとつの仕事の責任者を任されるようになれということだ。実際、二宮は2年後にはかなりの仕事を任せてもらえるようになった。

「当時の社風なのか、『お前は中村屋人なんだよ』という空気が社内にありました。家庭の事情で中学しか出られなかった自分にとって、中村屋はいろんなことを教えてくれる大学のような場所でした」

しかも、安雄社長は「中村屋の“細胞”ではなく、なくてはならない人になりなさい。他所へ行きたくなったら、どんどん行きなさい」とよく口にしていたそうだ。

二宮も独立を目指し、復員後に戻ってきた職人の先輩方を慕って、さまざまなことを教わった。中村屋が購入したばかりの車で、新宿本店から寮のある調布まで乗せてもらったときは、幹部の話に耳を澄ませた。そのときの教えである「何かうまくいかないときは問題点を3つあぶり出す。その3つを解決するために、試作をする。失敗してもいい。それは成功にたどり着くための失敗なのだ」は、いまも商品開発の際に必ず意識しているという。

また、休日には「世の中にこの店あり」と言われるようなレストランを片っ端から訪ね、飛び込みで皿洗いを申し出た。

「皿洗いをしながら、店主の調理法はもちろん、厨房のレイアウトや人数を含めた規模感、働く人たちの表情などをつぶさに観察しました。バンドボーイみたいなこともしていて、キャンプ場やホテル、ショークラブに楽器を搬入後、楽屋に隣接している見事なキッチンをしげしげと眺めたり。アメリカのレストラン・マネジメントを学ぼうと必死でしたね」

外に目が向いた理由を、二宮は「当時の中村屋に自身が身につけたいこと、やりたいことを見つけられなかったから」という。それは中村屋としての劣等感であり、またこの組織にいる以上、自己の劣等感にもつながる。その中で何か自分にできることはないかと、暗中模索した。

だからこそと言うべきか、そんな二宮に転機が訪れる。1958(昭和33)年、中村屋本店が地上6階、地下2階のビルに生まれ変わるのを機に、「グリル」という本格的なフランス料理店のチーフに任命されたのだ。フランス料理に興味をもっていた22歳の二宮にとっては、これ以上ないチャンスだった。

「そこまでは我慢しようと思って(笑)。いずれはフランスに行くんだと、魚や鶏の処理の仕方やさまざまな料理を懸命に覚えました。ところが働くにつれ、中村屋で料理人になろうとする人間を増やすために正しい人材教育をしなければ、という心持ちへと変わっていったんです」

きっかけは「自らの実験場」と化していた寮の調理場だ。先輩の女性たちが夏みかんやぶどうなどを持ってきて「ジャムをつくって」というのでつくる。寮生の日々の食事もつくる。その際、社の砂糖やバターなど当時の高級食材を使い込んでいたのだが、総務部長は「出世払いだ」と見逃してくれた。恩義を感じた。

月日は流れ、二宮は27歳の若さで中国料理の料理長に就任。前料理長が55歳で定年となり、継ぐ者がおらず、自ら手を挙げた。「新宿中村屋一筋」になる覚悟が、芽生えはじめていた。

*デリカテッセン……ドイツ語でおいしいものを意味する「デリカテッセ」の複数形

3回進化した中村屋のインドカリー

1970(昭和45)年、「新宿中村屋」として大阪万博に出店が決まり、食材開発のためにセントラルキッチンが開設された。主任を命じられた二宮は、中村屋を代表する人気メニュー「インドカリー」を一から手がけることになる。32歳だった。

二宮によれば、中村屋のインドカリーには歴史的に見て3つの時期に分けることができるという。第1期は、1927(昭和2)年6月のインドカリー誕生から、戦中までだ。

日本に亡命したインド独立運動家のラス・ビハリ・ボースは、自らを匿ってくれた中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光(こっこう)夫妻に、インドカリーのすべてを伝授した。素材を厳選し、調理に手間をかけてつくられたカリーは、80銭と高価にもかかわらず、1日300食が飛ぶように売れた。

「相馬愛蔵は、山梨に軍鶏の養鶏場をつくりました。軍鶏肉は赤みがかかり、身の締まった絶品だった。米は、江戸時代の最高級米である白目米。従業員によるサービス、店内空間も素晴らしく、お客さまにとってご馳走感のある、価値の高い食事を提供できたのです」

第2期は、戦後の魚粉を餌にして魚臭かった肉の時代から、ブロイラーを使用している途中までだ。

1958(昭和33)年の本店改装時、北海道の牧場主が「使ってみてほしい」と持参したブロイラーは、身が厚く、骨から出る旨さが格別だった。二宮は「調理人として驚きがあった」と振り返る。当時ブロイラーは日本ではまだメジャーな存在ではなく、中村屋はそういう意味でも時代の最先端を行っていた。

「しかし、10年以上が経って、ブロイラーの味も変わっていったんです。あるとき、農学者の近藤弘さんが『日本のカレー史をつくりたい』と訪ねてきて、カリーを食べていただいたのですが、『肉と骨の間が硫黄臭い』と……。これはすぐ変えねばいけないと決意しました」

前述のとおり、中村屋は良い素材を手に入れるために養鶏場を開いていたこともある。「原点に立ち返るなら、鶏からつくるしかない」と考えた二宮は、ブロイラー以外の養鶏の方法を鶏の専門家に尋ねたり、戦前の取引先などにも話を聞くなど奔走した。そして、福島県の養鶏会社に試験的に関わってもらう算段をつけた。

「名古屋コーチン、薩摩鶏などいろんな鶏を試したのですが、中村屋のカリーとは合わない。それで新しい鶏を開発しようと思ったんです。胸が厚くて、色が赤く、骨は細くて、ゼラチンのよく出る骨の髄をもつ鶏を」

養鶏会社とフランスのブレスを訪れ、最高品質の鶏を農家で見せてもらうとともに、これからの鶏について議論し、カリーに合う鶏を開発した。また、種の開発だけでなく、餌や水にもこだわり、平地で開放的に育てるなど、飼育方法を工夫した。

二宮の次の仕事は、当時の社長に新しいインドカリーをプレゼンすることだった。1978(昭和53)年、社長室のテーブルにクロスを敷き、戦前からの味の変遷や新しいカリーの開発ポイント、中村屋の将来像を細かく説明した。

「『中村屋』のインドカリーは、時代に合わせて変えていくべきです。そのためには、これまでとは違うことを追求せねばなりません」

二宮の意気込みを、社長は終始にこやかに受け止めたという。黙って口をつけ、いいとも悪いとも言わなかったが、二宮はその姿に太鼓判を押された思いだった。これがインドカリー84年の歴史の中で最も大きく味が変わった瞬間であり、第3期の始まりだった。

中村屋らしさとは「期待を裏切らないこと」

「中村屋のインドカリーをつくるというのは、本人にとってとても名誉なことなんです」

それは実際に店を訪れた際に、カリーを運ぶホールの人たちの表情にさえ感じられる。彼らに名誉だと思わせるインドカリーの魅力、その原点とはいったい何だろうか。

「味はもちろんのこと、お客さまの存在も大きいですよね。黙って召し上がるお客さまもおられますが、複数で来られると必ず『中村屋ってね』という会話をされている。中には3世代、4世代にわたって食べに来る方もいる。インドカリー一品だけを求めて何度も足を運んでくださるのは、中村屋の誰にとっても誇りです」

「だからこそ、『常に中村屋らしくあれ』なんです」と二宮は続ける。「中村屋らしさ」とは、期待を裏切らないことだ。

病床に臥しながらも「中村屋のカリーを食べたい」と言っていたお客さまがいると聞き、カリーと一緒に店のポットや食器などワンセットを届けたこともある。カリー好きの亡き人のために本店を貸し切って「偲ぶ会」を開催されたこともある。中村屋のインドカリーが長年伝承してきたもの──それは青春の味であり、変わらないことへの信頼なのかもしれない。

前述の農学者・近藤弘は、「中村屋のインドカリーは無形文化財」と言ったそうだ。その言葉は決して大袈裟ではない。実際、いまから100年弱前に、創業者の相馬夫妻はインドカリーの調理法だけでなく、インドの伝承医学(アーユル・ヴェーダ)が教える食への姿勢、健康哲学も教わっていたのではないかと推察される。

「相馬夫妻は単に目新しい料理を提供しようとしたのではない。日本がその食物や国とどう向き合うのかを常に思案していた。いわば、中村屋のインドカリーの一皿には、創業からこれまでの歴史と文化が映し出されているのです」

創業者夫妻が追求したインドカリーの“独自性”を誰よりも理解し、いまに引き継ぐ、二宮らしい見解だった。

※所属、役職名などはインタビュー当時のものです

ライター:堀 香織(ほり・かおる)
ライター/編集者。雑誌『SWITCH』編集部を経て、フリーに。雑誌『Forbes JAPAN』、「Yahoo!ニュース特集」ほか、各媒体でインタビューを中心に執筆中。単行本のブックライティングに是枝裕和『映画を撮りながら考えたこと』、小山薫堂『妄想浪費』など多数。鎌倉市在住。
https://note.com/holykaoru/n/ne43d62555801