インドカリーに教えられた中村屋で働く醍醐味

新宿中村屋ビル 本店料理長 石崎厳

1986(昭和61)年、新宿中村屋に入社した石崎厳(つよし)は、フランス料理やカリーをはじめとする中村屋の伝統料理を担当し、現在は本店料理長として「マンナ」と「グランナ」を一手に引き受けている。中村屋の味を担う第一人者に、中村屋の屋台骨であるインドカリーとの出合いを聞いた。

インドカリーを提供する厨房は戦場だった

「ルパには絶対に行きたくなかった。そのときはファミレスみたいなものじゃないかと勝手に格下扱いしていたんです」

1993(平成5)年当時、新宿中村屋本店の2階にあった「ルパ」は、インドカリーを中心にしたオリジナルの洋食と中華料理を出す店だった。フレンチレストラン「レガル」(3階)、パブ「ラコンテ」(4階)を3年ずつ勤めあげた石崎厳にとって、ルパへの異動は正直、意に沿わないものだった。

だが、実際に働いてみて、気持ちは一転する。

ルパのキッチンはさながら戦場だった。フロアは160席で、インドカリーの注文数は、平日500食以上、土日は600食を超える。本店全館分の白米を炊くのもルパの厨房で、失敗は許されない。朝から晩まで尋常ではない忙しさと緊張感の続く日々。「中村屋のインドカリー」という存在の大きさに、石崎は素直に畏敬の念を抱いた。

翌年、33歳で主任昇格試験に合格。チーフに任命され、マネジメントにも積極的に関わった。「負担より、やりがいを感じた」と石崎はこのときを振り返る。数十人いるアルバイトのシフト管理や、仕入れ食材の原価計算を自ら考えることで、仕事の効率アップにもつながるからだ。

「料理人なんて料理をつくれりゃいい、マネジメントは二の次三の次だという世の風潮が、もともと好きではなかったんです。逆に厨房のマネジメントをしっかりやることが、自分のステップアップにもつながると考えていました」

石崎は小学校から高校まで野球を続け、キャプテンをしていた時期もある。そのときのチームワークの実践が、ルパでも花開いたということなのかもしれない。正月や盆休みの采配が功を奏して、1日の売上目標金額を達成したときなどは「まさに試合に勝ったときのような達成感だった」と笑う。「もちろん自分の手柄ではなく、その日のチームメイト全員による大勝利ですよ」。

マネジメントと同様に石崎を魅了したのが、インドカリーの存在だった。カリーは「カリー部屋」と呼ばれる部屋で、専門の職人の手によってつくられる。石崎もルパのチーフとして味見をしていたが、日々変わらぬ味を再現することの重みと責任を感じ入るようになった。

「味見をするうち、つくる人によって若干の味の決め手があることにも気がつきました。提供する安定した味の許容範囲内ですけれどね。『中村屋のインドカリー』を自分が毎日つくれるかというと難しいなと感じたし、職人さんたちへの尊敬の念が日に日に増しました」

4年後、「カリー部屋」を抱えていたセントラルキッチンという部署が、ルパと統合された。つまり、自らの管轄下になったわけだ。「先輩だろうが職人だろうが、自分の部下になるわけだから、そこは遠慮しちゃいけない」と感じた石崎は、カリー部屋との関わりをより一層深めていく。それが後年の自分のキャリアに影響するとは思ってもいなかった。

「魚を卸した数は中村屋で一番」という自負

幼いころから料理をつくるのが好きだった石崎が、本格的に飲食の面白さに目覚めたのは大学時代だ。小学校教諭を目指して入学したものの、自分の性格には合わないかもと感じていた矢先、脱サラした父親が喫茶店を始めた。石崎は調理を手伝いはじめる。

「自分のつくったものをお客さまが完食し、『おいしかった』と言って帰られるのは、本当に嬉しかったですね」

その後の行動は早かった。夜は調理師学校に通うことにし、学費捻出のため、昼間は喫茶店を手伝うか、運送業のアルバイトに励んだ。両親の反対は特になかったという。

さらなる夢の後押しとなった人物もいる。調理実習にやって来た、村上信夫だ。当時は帝国ホテルの総料理長で、NHKの『きょうの料理』の名物講師としても知られていた。

実習の日のメニューは帝国ホテルのスペシャリテ「シャリアピンステーキ」。石崎が「味見をお願いします」と言うと、村上は一口食べ、右手の親指と人差し指の先を合わせて輪をつくって見せた。

「料理がおいしいときの村上さんの決めポーズだったんです。そこからさらに憧れが深まったというか、料理人になるんだという気概が生まれました」

大学には退学届を提出し、調理師学校を卒業した石崎は、都内の小さなフレンチレストランに職を得た。厳しい職場だった。つくった賄いをオーナーシェフにゴミ箱へと捨てられる、そんな苦い経験が心に残っている。

次に働いたのが新宿中村屋だ。1986(昭和61)年、25歳になっていた。

最初の配属はフレンチレストラン「レガル」の洗い場だ。シェフと2人体制で仕事が次々ふってきた以前の職場とは違って、任された仕事が終わらないかぎり、次の仕事にありつけない。石崎は手早く洗い物を終えては、調理場に飛んでいった。すぐに「手伝え」と声がかかるようになった。

「ひとつでもいいから調理の仕事を覚えたかった。朝に魚が10匹入っていたら、その日に使う2、3本以外は『取っておいてください』と声をかけて、夜、自分の仕事が終わった後に練習がてら卸すとか。魚を卸した数でいったら、たぶん僕が中村屋で一番じゃないですかね(笑)」

3年後に「ラコンテ」に異動。厨房は3人で、石崎は二番手となるサブチーフだった。ここでは自分たちでメニューを開発できる楽しさを体験したという。

「夜の部のお酒に合うメニューを、和風、洋風、30〜40人のパーティーメニューなど、いろんな視点でチャレンジすることができました。しかも “花金”という言葉が流行った時代で、金曜の夜は3回転が当たり前。おつまみですから、1テーブルに3つも4つもいっても仕方ないので、2つ出たら次は隣のテーブルに2つ出すというようなコントロールも必要だった。忙しい中でそういうチャレンジの日々、フランス料理にはない料理形態の面白さにハマりました」

レガルではそれほど必要とされていなかったフロアとの連携も、大箱のラコンテでは必要とされた。

「つくったものをテーブルに持っていくのはフロアで働く人たち。それこそ、レガルのときの飲み会が月1回としたら、ラコンテでは週1回とか。そういうふうにコミュニケーションを深めて、普段の仕事がスムーズにいくようにしていましたね」

ルパでマネジメントを任される布石がここにあった。

神か、学者か。二宮健総料理長との出会い

レガル、ラコンテ、ルパを経験したのち、40代に入った石崎は、本店飲食フロア全体の料理長へと就任した。必然的に、二宮健総理長との親交が深まった。

「最初のころはよく総料理長のご自宅に伺って、カリーの話を丸一日聞きました。あまり生きた心地はしませんでしたけどね(笑)。とにかく、材料となる鶏肉や玉ねぎひとつ取っても、何年に何が起きた、何があったという話になる。うちのインドカリーにはやっぱり歴史が重要なんだと気づかされました」

2014(平成26)年、新宿中村屋は本店をリニューアルオープンした。現在、最上階の「グランナ」と地下2階の「マンナ」の料理長として奔走している石崎は、働いてきた40余年を振り返り、「中村屋」という知名度にはたびたび驚かされたと言う。

例えば、六本木の商業施設の飲食フロアを歩いていて、通りすがりに「あの人、中村屋の人だよ」という声が聞こえたり、カラオケ店の店長に「『dancyu』で拝見しました。サインしてください」とお願いされたり。食品衛生の集会では、自分の名前ではなく「中村屋さん」と呼ばれる。自分は中村屋の代表のひとりなのだ、と、そのたびに身が引き締まるそうだ。

そのような立場にある石崎にとって、総料理長の二宮健はいまだ特別な存在だ。「僕にとって総料理長は、やっぱり神さまですよね」と言う。

「中村屋は企業であり、我々は会社員ではありますが、実際には上下関係のはっきりした料理人の集団なんです。だから、総料理長の言うことは絶対です。ご自身は『先輩として言っている』と言うけれども、我々受け手としては『神の言葉』として受け取っている」

「もしくは」と続けて石崎が口にしたのは「学者」という言葉だった。

「この人は料理人というよりは、学者じゃないかと。いまも文献資料を集め続けて、しかも中村屋の味の伝承や、歴史や文化の宣伝について頭の中がアイデアでいっぱいなんですよ。20年後に総料理長と同じ年齢になったとき、自分が果たして同じことをできるだろうかと……」

まさに中村屋の「生き字引」である二宮は、最近、若手社員に自らの経験や中村屋の思想を語る場を設けた。石崎はそこにシェフの正装をして現れた。「聴く側の姿勢」を自ら表現したのだろう。

また石崎は「お客さまが、『やっぱり中村屋って期待を裏切らないよね』という話をされていると誇らしい」とも話した。「期待を裏切らない」は、二宮に「中村屋らしさとは何か」を問うたときの答えだ。石崎の言葉や行動には、二宮からの教えがしかと受け継がれている。

「銀座のナイルレストランや笹塚のラーメン屋さんとかで、総料理長とばったり出会うんですよ。さっき神さまと言いましたけど、今日のインドカリーはそこまで上手くいかなかったなという日が年に数回あって、そういうときに必ず現れるんです(笑)。だから、街で白髪の男性を見かけると、足がすくんじゃいます。あ、今日の俺、どうだったかな?って」

※所属、役職名などはインタビュー当時のものです

ライター:堀 香織(ほり・かおる)
ライター/編集者。雑誌『SWITCH』編集部を経て、フリーに。雑誌『Forbes JAPAN』、「Yahoo!ニュース特集」ほか、各媒体でインタビューを中心に執筆中。単行本のブックライティングに是枝裕和『映画を撮りながら考えたこと』、小山薫堂『妄想浪費』など多数。鎌倉市在住。
https://note.com/holykaoru/n/ne43d62555801