内村鑑三うちむら かんぞう

クリスチャン 内村鑑三

近代日本のなかで、言論で、文学で、そして宗教で、それぞれ後世に残るものを書き記し、はかり知れない思想的影響を当時は勿論、今の時代になっても色濃く残している人物、それが内村鑑三です。中村屋の創業者 相馬愛蔵も内村から思想的影響を受けた者のうちの一人で、商売の基礎を形成し、商人としての道を築くのに充分な薫陶を受けたといえます。明治・大正・昭和と長きにわたって個人雑誌を発刊し、『万朝報』にも論文を載せ、「非戦論者」としても名を馳せた内村は、中村屋の経営にも大きな役割を演じることになったのです。

その生涯

内村鑑三は文久元(1861)年、上州高崎藩の江戸屋敷で父 宜之、母 ヤソの長男として生まれました。内村は4歳の時から『大学』(中国の古典)の素読をさせられており、とても聡明な少年でした。慶応4(1868)年、高崎に一家は引き上げます。そして明治6年に単身上京、有馬私学校英語科に入学し翌年には東京外国語学校(英語学科)に編入をしました。肋膜炎を患い1年休学し学校に戻ると新渡戸稲造、宮部金吾らがおり、生涯の友となります。この3人は英語が上手になるため日常を英語で話すこととし、日本語を口にしたら五厘の罰金を払うことにした、というエピソードもありました。明治10年には3人とも札幌農学校に進学し、そこで更に英語能力を高めていきました。内村は農学校時代の北海道と、明治17年に渡米し翌年入学したアマスト大学の2ヵ所で若き日の人間形成をなしたといえます。内村は後々まで北海道を「心の故郷」とし、ことあるごとに札幌の地を踏んで、自分を見つめ直しています。明治21年に帰国し新潟、東京、大阪と各地で英語教師をしながらキリスト教宣教活動を行いますが、明治24年には有名な「不敬事件」を起こします。天皇宸書の勅語に「チョット頭を下げ」て、「礼拝的な最敬礼」をしなかったとして不敬漢として喧伝されたのです。この後内村は二度と官職につくことはなく、生涯を講演と執筆、キリスト教布教に捧げました。

相馬愛蔵とのかかわり

中村屋が開店して間もない明治36~37年頃、近くの食料品店が安売りをして、とても繁盛していました。このお店は洋酒を仕入れ原価の2倍近い価格で販売することで利益を得、その他の商品を安売りしていました。愛蔵もこの仕組みに心を動かされ、洋酒販売を行うこととします。販売開始そうそう内村が来店し「私はこれまであなた方のやり方には悉く同感で、陰ながら中村屋を推薦して來ました。その中村屋が今度悪魔の使者ともいふべき酒を賣るとは…私はこれから先き御交際が出来なくなりますが」「酒を賣るやうではあなたの店の特色もなくなります。あなたとしてもわざわざ商賣を選んだ意義がなくなりませう」(相馬愛蔵『一商人として』)と強く戒められます。愛蔵は面目次第がない旨お詫びし、ただちに販売を中止します。また当時、月1回、場合によっては盆暮れしかなかった「お店の休み」を週1回、日曜日定休にしてはとも勧められました。日曜礼拝をするためです。残念ながら即実施するには至りませんでしたが、愛蔵の胸には週休という言葉がしっかりと刻まれることになりました。

「聖書之研究」創刊号

晩年

内村は自らの思想を表すのに「二つのJ」、イエス(Jesus)と日本(Japan)という言葉を使い、これに殉じました。また米国式の「募金、社会の公的勢力たらんとする」教会活動を嫌い「無教会主義」を提唱しました。

内村の個人雑誌『聖書之研究』は明治33年に創刊され、昭和5年、死に至るまで書き続けられました。晩年にあってはこの雑誌と日曜日の聖書講義だけで生活を支えてきました。

昭和5年3月23日、心臓病でその生涯を閉じました。69歳でした。


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