新宿中村屋
■中村屋サロン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
  16 17 18                        
戸張孤雁
戸張孤雁

● 戸張孤雁

〜親友との出会い〜
 戸張孤雁は、明治15年東京日本橋に志村久蔵の長男として生まれました。本名は志村亀吉。後に母方の家を継ぎ戸張と名乗ります。幼少の頃から絵に興味を持ち、日本銀行に就職した際にも銀行窓口で絵ばかりを描いて上司から叱責されるくらいの熱の入れようでした。また夜間には片山潜に英語を習い、ついに絵の勉強のため渡米します。明治34年のことでした
 そして明治35年、孤雁は生涯の親友と出会います。渡米後ナショナルアカデミーで挿絵や洋画を学んでいた孤雁を荻原碌山が訪ねてきたのです。孤雁はアカデミーを辞め、碌山に誘われアートリーグに通い、明治39年に孤雁が病で帰国するまでの短い間でしたが、お互いを理解しあい切磋琢磨していきました。
〜それぞれの道〜
 孤雁は帰国後小田原で療養し、明治40年東京日暮里に移り、木下尚江や徳富蘆花の本の挿絵を描いたり、孤雁挿絵集の出版準備をすすめます。また、結果的には失敗に終わりますが、洋風挿絵研究会を起こし普及に努めるなど精力的に活動します。
 一方、碌山はその後パリに行きロダンと出会うことで彫刻に転じ、明治41年帰国。2人は3月に、芸術の別の道を歩む者として再会します。そして碌山は新宿角筈にアトリエを作りますが、2人はマメにお互いのアトリエに通い合いました。
〜親友との別れ、そして彫刻の道へ〜
 明治43年4月、写生のため荒川土手に出かけ夕方に帰宅した孤雁は、相馬黒光からの1枚のメモをうけとります。それは親友である碌山危篤の知らせでした。急いで碌山の居る中村屋に駆けつけると、息も絶え絶えの碌山が孤雁に手を差し伸べています。そして孤雁がその手を握るなり、碌山の呼吸は途絶えてしまいました。
 親友の死をみとった孤雁は、数日後、相馬黒光を誘い碌山のアトリエへと入ります。故人の日記が読まれないように焼くのが目的でした。中に入ると、まず彫刻台に生々しい土のままで置かれている絶作となった「女」が目に入ります。2人は、その作品に何かしらを感じながらも、碌山の机から日記を取り出すと、孤雁は泣きながら、黒光は冷静にストーブに日記の一枚一枚をくべ焼きました。そして孤雁は碌山の使った粘土を貰い受け、碌山の歩んだ“彫刻”の道を目指すことを決意。中原悌二郎とともに太平洋画会研究所彫塑部に入ります。
〜彫刻家として〜
足芸
足芸

 明治43年、第四回文展に彫刻「をなご」と初出品し入選。その後、大正3年「足芸」の製作や、大正博覧会に「玉乗りの女」、第八回文展に「犠牲者」を出品、大正5年には自宅画室で個展を開催するなど彫刻家としての活動に力を入れます。孤雁は自分の彫刻を「重い力強さが欠けている」と感じていたようですが、ロダン―碌山の流れを汲みながらも、瞬時の動きを捕まえる新鮮な感覚や柔らかな肉付け、繊細な陰影の美しさに独特のものがありました。
 大正10年、病気再発のため御宿に引越しますが製作を続け、昭和2年6月、病床にて「碌山を憶ふて彫刻界の現状に及ぶ」を執筆。それを最後に12月自宅にて永眠します。46歳の若さでした。
新宿中村屋
■中村屋サロン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
  16 17 18                        

[ HOME ]

NAKAMURAYA CO.,LTD. All Rights Reserved