創業者ゆかりの人々

創業者 相馬夫妻の「己の生業を通じて文化・国家(社会)に貢献したい」という気持ちが反映したのでしょうか、中村屋には、明治の末から大正にかけて、美術、演劇、文学、その他広い分野にわたる多彩な顔ぶれが集まるようになりました。相馬夫妻は、集まってきた人々に対して多大な理解と惜しみない支援を送り続けます。この中村屋を舞台に創業者とこれらの人々の間に繰り広げられた交遊の世界は、いつしか”中村屋サロン”とよばれるようになりました。
また、夫妻はその人柄から、芸術家だけでなくあらゆる分野の人々と親交を結び、多くの人々に支えられてまいりました。
このコーナーでは、中村屋サロンゆかりの芸術家たちや、創業者夫妻を支えた人たちの人物像、エピソードをご紹介します。

中村屋サロンの芸術活動

出来事

中村屋のアトリエの住人

1908年明治41年

碌山が欧州から帰国。角筈(現在の新宿)にアトリエを建て、そこから中村屋に通う

1909年明治42年

碌山の帰国以来、戸張孤雁柳敬助のほか、碌山の説く「生命の芸術」を探求するため、中村彝中原悌二郎が中村屋に出入りし、とみに芸術的雰囲気が広がる

1910年明治43年

碌山が友人 柳のために中村屋裏の古洋館をアトリエに改造する
碌山、突然大量の血を吐き息を引き取る

1911年明治44年

柳が中村屋のアトリエの横に碌山のアトリエを移して2階建てとし、碌山館と称して碌山の遺作を公開
柳はアトリエを彝にゆずる

1912年大正元年

岡田虎二郎の「岡田式静坐法」がベストセラーに

1913年大正2年

松井須磨子、島村抱月らが藝術座を立ち上げる

1914年大正3年

彝、相馬家の長女 俊子をモデルにした「小女」を制作。第八回文展三等賞

1915年大正4年

彝、アトリエを去る
秋田雨雀ワシリー・エロシェンコと知り合う

1916年大正5年

相馬夫妻、早稲田中学英語教師の會津八一と親交を結ぶ
前年、東京から送られて来た碌山の遺作が穂高で碌山館として公開される

1917年大正6年

鶴田吾郎、大連でニンツァに会う

1918年大正7年

ラス・ビハリ・ボース、相馬家の長女 俊子と結婚

1919年大正8年

ロシア人 ニンツァが中村屋を訪れ、中原の「若きカフカス人」のモデルとなる
エロシェンコ、東南、南アジアの旅から戻る

1920年大正9年

脚本朗読会が店の2階で定期開催され、演劇関係者などの出入りが増える
彝、鶴田がエロシェンコをモデルとした作品を制作。彝の「エロシェンコ氏の像」は第二回帝展で一等賞

1921年大正10年

小牧近江らの同人雑誌『種蒔く人』(東京版)の発刊に協力(プロレタリア文学の先駆誌)
エロシェンコ国外退去

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