柳敬助やなぎ けいすけ

小・中学校時代(十代)

柳敬助は1881(明治14)年5月、現在の千葉県君津市に山田家の次男として誕生しました。山田家は古くから地域医療に尽くしてきた家柄で、父 文安もまた医者でした。柳が6歳のとき、親戚で絶家となっていた柳家の姓を継ぎますが、生家で起居しそのまま小・中学校に通います。小学校では校長先生に、中学校では図画教師に、それぞれ絵画の薫陶を受け、画家としての素地が培われます。このことがのちに東京美術学校に進む原動力となり、画家として生きるきっかけとなります。父の勧めでいったんは医者を目指しますが受験に失敗し、1901(明治34)年、20歳のとき東京美術学校西洋学科に入学します。

画学生時代(二十代)

柳は黒田清輝を中心とする「白馬会」にも所属し、翌年には油絵を出品します。1903(明治36)年には絵画勉強のため渡米を計画しますが、父や師 黒田の反対を受けます。学校も辞め、あきらめきれない柳は機会を窺い、とうとう暮れも押し詰まった12月、彼の地へ旅立ちます。

ニューヨークでの生活は決して楽ではなく、昼間働き夜学校に通う日々を送ります。そのため同じ学び舎で昼間のコースにいた戸張孤雁荻原守衛(碌山)と初めて会うのは数カ月後になりました。また、翌年には高村光太郎とも出会い、一生の付き合いが始まります。

1906(明治39)年に戸張が帰国し碌山が渡欧、1907(明治40)年には光太郎も渡欧します。また同年、弟、長兄を相次いで亡くし、翌年には母 はるも亡くなり、渡欧の費用も稼ぎ出せずにいる中、一人残された父を思い帰国すべきか悩みます。1909(明治42)年パリ、ロンドン、その他の諸国をまわり、古今の名作を鑑賞し帰国の途に着きました。

制作に打ち込む(三十代)

帰国した柳は郷里の泉村に落ち着き父を慰めつつ、郷土の風物、身近な人の肖像を描きます。その父をも1910(明治43)年に失い、碌山の勧めもあって新宿中村屋の敷地内にアトリエを設けることにし、建築を碌山に任せます。4月20日、碌山からアトリエ完成の電報を受け、上京の準備をはじめた2日後、碌山が中村屋で亡くなったことを聞きます。この後、制作の拠点を新宿に移し、精力的に絵筆を握ります。柳は主に肖像画を描きましたが、相手を選び、いくらお金をつまれてもその気にならなければ描こうとしませんでした。ただ、一旦その気になると寝食を忘れ真剣に取り組みました。その中でも碌山はもとより、井口喜源治、相馬家の次女 千香、黒光の幼馴染 布施淡の妹である永島瑛子など相馬家に近しい人々の肖像画が残されています。

1911(明治44)年、黒光の紹介で知り合った橋本八重と結婚。中村屋のアトリエを彝に譲り、雑司が谷に居を構え制作活動を続けます。またこの年の暮れには妻 八重が女子大からの友人 長沼智恵子を光太郎に紹介しています。大正中期には好きな山の絵を描くなど数多くの秀作が次々と制作されましたが、病のため1923(大正12)年5月16日、42歳の若さで亡くなります。この年友人の企画で遺作展が計画されましたが、9月1日開催当日に襲った関東大震災で残念ながら遺作30数点が消失することになります。このこともあって現存する作品は、僅かしかありませんし、画業に対する評価もあまり成されませんでした。しかし、最晩年には梅原龍三郎、岸田劉生、柳宗悦ら美術界の重鎮と家族ぐるみでの写真が残っているように、二科会創立など、美術界の発展に寄与しました。

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