中原悌二郎なかはら ていじろう

生涯の友との出会い

中原悌二郎は明治21年、荒物雑貨卸・小売業を営む中原家の次男として北海道釧路に生まれました。30年、叔父 茂助の養子となるために旭川へ移り、忠別尋常高等小学校に転校。この頃から武者絵を好んで描くようになります。35年、難関の北海道庁立札幌中学校を受験。旭川から15名が受験し、中原がただ一人合格します。しかし、第三学年で落第。次第に画家志望が強くなってきた中原は38年、養家より出奔、上京します。

翌39年には白馬会洋画研究所に入り、貧しいながらも石膏写生に励み、同秋、白馬会菊坂研究所から移ってきた中村彝と出会います。絵を始めたばかりの2人はすぐに意気投合、刺激しあいながら成長していきました。明治40年、中原が中村不折の指導する太平洋画会研究所に移籍した際には、翌月、後を追うように彝も同研究所に移籍。中原は後年「此の友人の与える刺激によって、種々に考えさせられ、又学ばされた…」(『中央美術』大正9年11月号)と語っています。

彫刻へ転進

「老人」

明治41年、不折が同郷の碌山を研究所に招き、中原と彝は初めて碌山と会います。それ以来、2人はたびたび新宿角筈の碌山のアトリエを訪ね、碌山の下に集まった戸張孤雁高村光太郎らと出会い、芸術全般や彫刻に対する造詣を深めていきました。

しかし、43年、碌山は30歳の若さで急逝してしまいます。そして中原はこの時期に彫刻に転進、太平洋画会研究所彫刻部に入ります。碌山の死の影響は計り知れないものがありましたが、それ以上に、粘土と石膏だけで制作できる彫刻を選ばざるをえなかったほどの貧窮状態が背景にありました。そして秋の第四回文展に「老人」が入選。当時まだ中原を知らなかった石井鶴三も「大まかな取り扱い方があたりに異彩を放っており、その強い印象が頭を去らなかった」と述べています。彫刻に転じて間もない時期のこの入選で、中原の今までのデッサンが無駄にならなかったことを示します。

以後、碌山の作品や写真によってロダンのブロンズに興味を持った中原は、ロダンの展覧会を見て感銘を受け、さらに造形的把握を強めていきました。

貧窮との戦いに勝って

大きな後ろ盾のない中原は彫刻へ転進してからも貧窮状態が続き、生活のために閉め切った部屋の中でペンキ絵を描き肺を患い、体は蝕まれていきます。生活に追われ体の自由も利かないなかで精神状態を保つため、明治45年には彝の薦めで岡田虎二郎の静坐会に入ります。

しかし、大正3年、喀血。帰郷し静養を続けながら回復を待ち、翌年上京します。この頃には作風はデリケートでリズミカルなものに変わってきており、友人となっていた石井鶴三と「お互い首をつくろうじゃありませんか」と話がまとまり、この「石井鶴三像」を大正5年第三回院展に出品。樗牛賞を受賞し、二科会の中心画家、有島生馬が大絶賛。彼の出世作となります。

『若きカフカス人』の制作

「若きカフカス人」

大正8年、鶴田吾郎の紹介で中村屋のアトリエで世話になっていたニンツァに関心を抱きます。そして8月末にニンツァが日本を去るまでの2週間、彝のアトリエでその頭部を制作。制作の途中で喧嘩になることもしばしばで、完成に手間取っている間にニンツァは日本を去ってしまい、ついにこの作品は完成しませんでした。しかし、このブロンズは未完成ながらもモデルとなったニンツァに「中原は鬼を造っている」とまで言わせた強烈な印象の作品となり、太平洋画会展に「若きカフカス人」と題して出展され、中原悌二郎の傑作の一つとして評価されます。 

更に名声のあがった中原は、続いて「平櫛田中像」の制作に取り掛かりますが、風邪を引いて中断、年末には2度目の喀血をみます。以来、体調が優れず研究所も休みがちとなり、ついに大正10年3月28日に絶命。34歳の若さでした。

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