會津八一あいづ やいち

歌人として

會津八一は1881(明治14)年8月1日、新潟市屈指の料亭 會津屋の次男として、新潟市古町通5番町で誕生しました。名前の由来は8月1日生まれで八一。平穏無事に幼年期を過ごし、西堀小学校から新潟高等小学校、尋常中学校へ進学し、いつの頃からか俳句を作り始めるようになります。1899(明治32)年の尾崎紅葉、坪内逍遥との出会いが更に俳句への探究心を深めましたが、一番大きな影響を与えたのは翌年6月の正岡子規との最初で最後の面会でした。俳句、和歌、漢詩について子規に教えをうけた八一は、子規の俳句革新の影響を大きく受けるようになります。そして、俳句中心の生活が続き、1902(明治35)年には東京専門学校(現早稲田大学)に入学します。

ところが、1908(明治41)年の奈良旅行をきっかけに短歌を詠むように。翌年、新潟新聞に寄稿した「我が俳諧」では、「技巧の臭を去て、人生の真味を加へよ」と語り、子規の死後、固定されてしまった俳句革新を打破し、卒業後の針村での生活では自己の人生観を、漫然主義、漠然主義、飄然主義とし、反自然主義的傾向に接近していきます。そして、1924(大正13)年『南京新唱』を出版。このときから短歌が中心になり、1875(昭和8)年には私費で『南京余唱』を発行します。また、八一の後半期にあたる戦中・戦後には、戦争による罹災、養女の死など一連のことがらが八一に悲痛と絶望を媒介とした激しい詩的営みを喚起させ、『山光集』『寒燈集』を出版。身近な実生活、戦争体験をモチーフにしたシリアスな悲傷の歌は、国民の胸をえぐり共感を誘いました。

教育者、東洋美術史学者として

1906(明治39)年東京専門学校卒業後、新潟の有恒学舎の教師として赴任したのが教育者としての始まりでした。八一はこの地に4年赴任し、1910(明治43)年には坪内の推薦で早稲田中学の英語教師となります。超人的な授業時間数での学生との接触が教師という職業に八一をひきつけ、1914(大正3)年には「秋艸堂学規」という八一の人生訓を送ります。

  • 一.ふかくこの生を愛すべし
  • 一.かへりみて己を知るべし
  • 一.学芸を以て性を養ふべし
  • 一.日々新面目あるべし

これは、「拙居家塾の塾生の為めに定めしもの」と注記され、八一自ら「率先して実践躬行」しようと述べています。
1908(明治41)年の奈良旅行がきっかけとなり八一は古美術の研究をはじめます。1923(大正12)年奈良美術研究会を創立します。そして1925(大正14)年中学教員を辞め、翌年、早稲田大学文学部で東洋美術史を担当。1929(昭和4)年には『東洋美術』を創刊します。また1933(昭和8)年に東洋文庫から刊行された『法隆寺法起寺法輪寺建立年代の研究』に集大成される法隆寺再建非再建論争に参加し、日本美術史学界の水準向上に寄与するなど積極的に活動しました。

書家として

八一が揮亭した「黒光庵」の看板は
中村屋本店の手作り和菓子の
ブランドとして使われていた

「俳句を短冊に書く」ことが書を始めるきっかけで、八一が自己を書人として意識していく過程で「潤規」(作品の価格表と規定)をつくりました。水墨画、てん刻などもやり始め、1934(昭和9)年には『村荘雑事』を自筆の書で発行し、1940・41(昭和17・18)年度の東京美術研究の講義では「書道論」を行います。

そして1945(昭和20)年、空襲で罹災し新潟へ移り、書が大きな位置を占める新しい生活に入ります。1949(昭和24)年には中村屋で個展を開き、1951(昭和26)年以降は毎年開催。また新潟でしばしば書論、書談を講演し、1956(昭和31)年の永眠まで、"古い時代の仮名と中国の漢詩"の固定した対立を起こしている書道界に対して警告を送りつづけました。

中村屋との関係

會津八一が揮号した羊羹のラベル

1916(大正5)年、八一が創業者 相馬夫妻の長男 安雄を早稲田中学校で教えたとき、八一が安雄を落第させたことがきっかけ。相馬夫妻が八一を訪ね、いさぎよく落第させたことを徳として八一にお礼を言ったことに始まります。1945(昭和20)年に八一が空襲で罹災したとき、安雄は八一を自宅に呼びたいと言いましたが、5月に中村屋も罹災したため実現せず。しかし、1948(昭和23)年、中村屋再建にあたり、八一は上京するたびに中村屋を訪れるようになります。現在、中村屋には煉羊羹の包装紙などに八一の書が残されています。

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