中村彝なかむら つね

軍人を目指した青年期

中村彝は明治20年7月3日、5人兄弟の末っ子として茨城県水戸市に生まれました。1歳の誕生日を迎える前に父を亡くした彝は、陸軍軍人であった長男 直を父代わりとし、その影響を受けて軍人を目指します。名古屋陸軍地方幼年学校に入学し、スパルタ教育に耐え無事卒業、そして東京の陸軍中央幼年学校に進学します。しかしその直後に肺結核と診断され、退校を余儀なくされます。エリート軍人への道を走っていた彝にとって、そのショックは計り知れないものでした。

絵に生きる道を見いだす

そんな彝に救いを差しのべたのが"絵画"でした。陸軍学校の前に通っていた愛日小学校高等科で知り合った野田半三の影響で、以前から絵を描くことに興味を持っていた彝は、療養しながら絵を描くようになります。画業に励む決意を固めた彝は、白馬会洋画研究所で絵を本格的に学び始めます。美術学校在学中には中原悌二郎鶴田吾郎らと知り合い切磋琢磨。そして明治42年の第三回文展で「巌」「曇れる日」が入選し、「巌」は褒状を受賞、44年の文展では「女」で三等賞を得ます。

新宿中村屋時代

「小女」

同年、彝は新宿中村屋裏のアトリエに移ります。このアトリエは碌山が洋館を改装したものでした。アトリエでの制作に熱中するあまり、食事もろくにとらなかった彝を心配して、相馬夫妻は彼を食卓に招き、相馬家の家族の一員のように扱います。大正3年、相馬家の長女 俊子をモデルとした「少女裸像」と着衣の「小女」を描き、「小女」は文展の三等賞に入賞。彝は自分のために裸になってくれる俊子の優しさに次第に惹かれていきます。しかし、二人の仲を相馬夫妻が注目するようになります。いくら芸術であっても我が娘の裸体の絵を文展に飾り、人々の目にさらすことへの抵抗、娘が敬愛しているとしても相手は喀血が続いている病人…。次第に夫妻は俊子が彝に接近するのを妨げるようになってしまいます。そして終に彝は中村屋を離れ日暮里に移転、大正3年の暮れには大島に逃避します。大正5年に俊子と再会するもその恋は実らず、彼の短い生涯の中で最大の悲劇となりました。

下落合時代

以後、いろいろな土地を転々とし、最終的に下落合のアトリエに落ち着きます。移転当初は友人も多く訪れましたが、傷心の彝は自炊生活や制作の疲れもでて、喀血が続きます。それを心配した友人が家政婦を雇い彝の世話を頼み、彝は病魔と戦いながら制作活動に熱中しました。そしてある日、友人の鶴田から"モデルにうってつけのロシア人がいる"との話を聞き、鶴田と一緒に彝の画室で制作するようになります。そのモデルは盲目の詩人 ワシリー・エロシェンコでした。エロシェンコは彝が使っていた中村屋のアトリエに住んでおり、目白駅で見かけた鶴田が「私、画家ですが、モデルになってくれませんか?」と声をかけたのです。黒光と相談しこの話を受けたエロシェンコは、8日間、彝のアトリエに通います。二人の画家はとりつかれたように描き始め、緊張の連続の8日間が経過。体力の限界がおとずれた彝を鶴田が止めて制作が終了しました。作品は第二回帝展に出品され、彝の作品は明治以降の油絵の肖像画中最高の傑作と評され、鶴田も初入選を果たしました。その後、精力的に自画像や家政婦の岡崎キイをモデルに絵を描きましたが、終に力尽き、大正13年12月、結核のため永眠します。37歳という短い生涯でしたが、中村彝の作品が画壇に与えた影響は大きく、70年、80年の芸術過程をふんだ人のそれに勝るとも劣らないものでした。

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