中村不折なかむら ふせつ

少青年期

慶応2(1866)年7月、父 中村源蔵、母 りゅうの長男として鈼太郎(のちに改名して不折となる)は江戸京橋東湊町で生まれました。源蔵は東湊町の書役、名主の補佐役として生計を立てていましたが、維新のごたごたで職を逸し、不折が5歳のとき郷里高遠へ帰ることになります。当時の不折は地面に絵を描いたり、字を書いたりして一日飽くことのない少年だったといいます。

ところが高遠に帰っても源蔵の仕事はうまくいかず、伊那や松本に職を求めて移り住む生活が続きます。この間に小学校を終えた不折は、上諏訪町の呉服店に勤めることになります。のちに彼が語ったことによれば、この頃、15歳頃ですが、商人になるのがどうしても嫌で、何とかして学問や芸術方面に進みたいと思うようになったようです。

身体を壊し郷里に戻った不折は菓子屋で働きますが、勉強したい一心で朝早く起き、仕事を早く済ませることで時間を作り、漢学や南画・書を習います。その甲斐あって、明治17年、19歳の時、郷里高遠の小学校助教員(代用教員)に採用されます。その後、伊那や飯田で教師を務めるかたわら、自らも数学や書画の勉強に励みます。

草創時代

明治18年には夏季休暇を利用して長野師範学校に遊び、教員の河野次郎に絵を学びました。河野に「君、田舎にいては駄目だよ。早く東京に出て勉強し給え」と言われ、画業専心のため上京を決意します。そして明治20年、22歳の時、教師時代3年間で蓄えたお金を持って絵を勉強するため上京します。金銭的に余裕がなく、伝手を頼りに高橋是清邸の空き部屋、三畳一間を借り自炊生活を始めます。十一字会(のちの不同舎)に入塾し、小山正太郎に師事し本格的に絵を学びます。不折は36歳で渡仏しますが、それまでの10数年間、風景画を中心に絵画の勉強に打ち込み、生活の糧としては新聞や教科書の挿絵描きを行い、非常に多忙な生活を送ります。不折が挿絵を担当していた日本新聞社には、生涯の友となる正岡子規がいました。また不同舎では、後輩に荻原守衛(碌山)がおり、時を同じくして渡仏するなど、互いに影響を受けあいます。また碌山の縁でと思われますが、中村屋の創業者 相馬愛蔵・黒光夫妻とも知り合います。中村屋が使用しているロゴは不折の書で、明治の終わり頃に揮毫されたものです。またこの頃より「不折」の雅号を常用し始め、終には昭和3年に「不折」に正式に改名してしまいます。 

不折が書いた中村屋の文字、
現在もロゴとして使用しています

不折は明治38年に帰国しますが、その直後から太平洋画会に所属し、またこの年には親しくしていた夏目漱石の『吾輩は猫である』の挿絵を本人の依頼により引き受けています。以後、多くの作品を世に送り出し、また文展の審査員を務めるなど活躍の場を広げます。

書家「不折」

不折は書家としても有名で、たくさんの書を残しています。フランス留学中も画業の傍ら書の研究をしていたくらいで、帰国後その評価も高いものとなり、たくさんの揮毫を頼まれます。親しくしていた碌山、中村彝、森鴎外、伊藤左千夫らの墓誌も彼の手によるものです。また不折は身なりなど全く構わないことでも有名で、質素な生活を続け稼いだお金を書道に関する資料収集に費やし、その後の書道博物館設立につながっていきます。

昭和18年6月6日、いと夫人と散歩に出た中村不折は脳溢血で倒れ、帰らぬ人となります。享年78歳でした。


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