中村屋の歴史大正

大正時代 中村屋の出来事

中村屋は1920(大正9)年から洋菓子の販売を行います。また、1921(大正10)年からはロシアパンの製造・販売も開始しました。明治が終わり、大正に入った日本は食文化も大きく変わり、洋食が定着し、洋菓子が広がっていきました。中村屋も洋菓子職人やロシアパンの職人を雇い入れ、業容を広げました。
一方で、中村屋の信用を更に高めたのが関東大震災時の被災者に対する支援でした。罹災を免れた中村屋は夜通しでパンやまんじゅうを製造し、原価に近い価格で販売します。店頭に押し寄せた被災者を前に創業者の相馬愛蔵は「商人の義務としても手を束ねていられる時ではない」(相馬愛蔵『一商人として』)と考えた末の行動でした。

1923(大正12)年、中村屋は株式会社に改組しました。また、大正から昭和にかけて、中村屋は業容を広げ業績を大きく伸ばしました。この時期、一商店という“家業”としての中村屋から“企業”としての中村屋に成長します。

大正末から昭和の初めにかけて、それまで場末とみなされていた新宿には開発の波が打ち寄せ、大型店が相次いで出店しました。1923(大正12)年の関東大震災を契機に、1925(大正14)年に三越が百貨店として新宿駅前(現在のアルタの位置)に出店し、ほてい屋が追分の角(現在の伊勢丹の位置)に店舗を設け、新宿の小売業者は軒並み大打撃を受けました。確かに百貨店の新宿進出は大きな脅威でしたが、その百貨店の行動を考えると逆に商機が見えてきます。大震災を境に、それまで都心部で生活していたビジネスマンが荻窪や中野方面に移り住み、それにより新宿駅の乗降客数が大きく増えたのです。

こうした新宿の変化に合わせ中村屋も営業時間を延長したり、一流の職人を採用したりし、多くの新製品を世に出していきました。

1915年大正4年

インド独立運動の志士 ラス・ビハリ・ボースを中村屋内にかくまう

ラス・ビハリ・ボース

「中村屋のボース」といわれるラス・ビハリ・ボースは1886(明治19)年、インド ベンガル地方に生まれました。当時、イギリスの統治下にあったインドでは独立の気運が高まっており、ボースも独立運動に身を投じます。
その活動は熱心で、1912(大正元)年にはデリーでインド総督への襲撃がきっかけで、イギリス政府から厳しい追及を受けます。そこでボースは亡命を決意。同じベンガル出身の詩人 タゴールがアジアで初のノーベル文学賞を受賞し、その記念で訪日する情報を知り、その親類を装って1915(大正4)年、日本に亡命を果たします。

1916年大正5年

ロシアの盲目の詩人 ワシリー・エロシェンコをアトリエに住まわせて援助

ロシアの詩人 ワシリー・エロシェンコ

エロシェンコはイギリスの盲学校で勉学中に日本のマッサージ師の話を聞き、はるばる日本を訪問。1914(大正3)年のことでした。
秋田雨雀や神近市子らの紹介で黒光と知り合い、のちに中村屋のアトリエに寄宿します。

エロシェンコの国外退去命令を報じる「東京日日新聞」 1921(大正10)年5月29日付

ワシリー・エロシェンコが2度目の滞在を始めて2年が経過した1921(大正10)年5月28日の夜、20人ほどの制服・私服警官が中村屋に土足で押し入り、エロシェンコの身柄を拘束しました。社会主義者の嫌疑で国外退去の命令が出た、というのが理由でした。
創業者 相馬夫妻は無謀な検束行為を許し難い暴挙として非難し、淀橋警察署長を告発。夫妻の目的は国家権力が民間人に対して横暴な行為に及んだという事実を世に知らしめることでした。裁判所は夫妻の言い分を認め、淀橋警察署長は辞職しました。

書家 會津八一との交遊始まる

美術史家であり、歌人であり、書家でもあった會津八一と創業者 相馬夫妻が親しく交わるようになったのは1916(大正5)年。夫妻の長男 安雄が通う早稲田中学校の先生が八一でした。それ以来、八一は中村屋に足繋く通うようになり、それは戦後になっても続きました。

會津八一の書 1949(昭和24)年

書の左側に見られる「秋艸道人」は會津八一の雅号

1919年大正8年

このころ、「かりんとう」発売

“かりんとう”の営業案内 1938(昭和13)年

右ページのまん中に「かりんとう」の文字が、左ページの上にかりんとうの「角缶」が見えます。
それまで鉄製(ブリキ缶)だったのが戦争による統制で「漆器折」に代わったことが書かれてあり、時局を感じます。

1920年大正9年

脚本朗読会を新宿の店で定期開催

脚本朗読会のメンバー

創業者 相馬夫妻は演劇活動にも力を入れて支援します。写真は中村屋の2階で撮影されたものです。
秋田雨雀、松井須磨子、神近市子、水谷八重子などが出入りし積極的な活動が行われ、大正後期には劇団を結成するまでになります。

脚本朗読会

黒光が目の見えないエロシェンコのために戯曲を読み聞かせ、戯曲の良さを理解させていたことがきっかけとなり、秋田雨雀、神近市子らが集い、中村屋2階で脚本朗読会が始まります。秋田はこの会を「土の会」と名付け、月1,2回お店の閉店後に開催されました。

洋菓子の販売を開始

1935(昭和10)年ごろの営業案内

1901(明治34)年にパン屋として創業した中村屋は、1909(明治42)年新宿移転時から和菓子の製造・販売を行いました。そして1920(大正9)年に東京・麻布飯倉の名門洋菓子店から職人を招き洋菓子の製造・販売を開始します。
営業案内には季節ごとの洋菓子が紹介してあり、素材の季節感がうかがえます。

1921年大正10年

「ロシアパン」の本格的な製造発売を開始

ロシアパンの製造

ギリシア系ロシア人 キルピデス(左)を採用し、1921(大正10)年からロシアパンの製造・販売を開始します。1917(大正6)年にロシア革命が起こり多くの技術者、職人がロシアを離れますが、キルピデスもそのうちの一人でした。
従業員が抱えているのはディスプレイ用のロシアパン「バトン」です。

店員の制服にルパシカを採用

ロシアの民族衣装「ルパシカ」を店員の制服に採用

中村屋はエロシェンコが普段着用していたロシアの民族衣装「ルパシカ」を店員の制服に採用します。当時、このルパシカは大変話題となりました。
戦前の社内報に従業員の話として、店から少し離れた寮に帰る途中、ルパシカを着ていなかったため、おまわりさんの不審尋問を受けたと書かれています。そのおまわりさんはルパシカのことを「袋」と言い、「袋」で中村屋の店員かを見分けていたようで、当時の新宿では身分証明の代わりになるほど有名だったようです。

1923年大正12年

株式会社組織に改組、商号を株式会社中村屋とする

関東大震災の緊急食料としてパン、饅頭3品を特価で販売
地震饅頭、地震パン、奉仕食パン

関東大震災記念の特価販売で賑わう店頭

1923(大正12)年に関東大震災がありましたが、新宿はほとんど被害を受けず、中村屋も無事でした。 中村屋はそのとき「地震パン」「地震饅頭」「奉仕食パン」の3品を夜通しで製造し、被災民に特価で提供します。
その後、震災の経験を忘れることがないよう、毎年9月1日には「大震災記念販売」と銘打ち特価販売を行うようになります。
この写真は大正の終わり頃のものです。

大正末期から昭和初期の新宿大通り

関東大震災で罹災を免れた新宿の街に、都心の百貨店、金融機関が相次いで出店しました。
百貨店では三越、松屋、伊勢丹、ほてい屋などが出店。写真左奥のビルがほてい屋(後に伊勢丹と合併)、 三越は1925(大正14)年ごろは現在のアルタの場所にありました。

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