中村屋の歴史昭和

昭和(戦前) 中村屋の出来事

中村屋は大正末から昭和の初めに新宿に進出してきた百貨店に対抗すべく、営業時間の延長や優秀な技術者の招聘、喫茶部(レストラン)の開設など積極的な方策を打ち出しました。また、1927(昭和2)年には中村屋を代表する3商品「純印度式カリー」「月餅」「中華まん」を発売します。これらの施策が奏功し、中村屋は百貨店の出店にも負けず、逆に売り上げを伸ばすことに成功します。

店が繁盛すると「中村屋の店員になりたい」との応募が殺到しました。お店の将来性もさることながら、会社の福利厚生の充実もその理由の一つでした。1930(昭和5)年には従業員の保養所を設け、1937(昭和12)年には店員のための企業内学校を作り、就業と勉学を両立したいという従業員の要望に応えます。お店は個人商店から企業となり、従業員数も増え規模も大きくなりましたが、従業員にとっての中村屋は今までどおりの大旦那(愛蔵)とおかみさん(黒光)のいる一商店でした。

戦争が近づくと、店頭には食料を求めてお客さまが列をなすようになります。物資不足の中でも何とかお客さまに商品をご提供したいと、中村屋は工夫を重ね商売を継続します。カリーパンも、料理としての純印度式カリーの提供が難しくなる中で、少しずつでもカリーを味わっていただきたいとの思いから、1940(昭和15)年に作られたものでした。

中村屋は1945(昭和20)年5月25日の東京大空襲で被災し、本店をはじめ寄宿舎、工場などすべてが灰燼に帰しました。

1927年昭和2年

喫茶部(レストラン)を開設、「カリーライス」を発売

【ラス・ビハリ・ボースと純印度式カリー】

中村屋は1927(昭和2)年6月12日にレストランを開設します。そのメニューに純印度式カリーがありました。純印度式カリーの発売は、インド独立運動の志士 ラス・ビハリ・ボースと相馬夫妻との出会いに始まります。

ボースは1886(明治19)年、インド ベンガル地方に生まれました。当時、イギリスの統治下にあったインドでは独立の気運が高まっており、ボースも独立運動に身を投じます。その活動は熱心で、1912(大正元)年にはデリーでイギリスのインド総督への襲撃がきっかけで、イギリス政府から厳しい追及を受けます。そこでボースは亡命を決意。同じベンガル出身の詩人 ラビンドラナート・タゴールがアジアで初のノーベル文学賞を受賞し、その記念で訪日する情報を知り、タゴールの親類を装って亡命を果たします。1915(大正4)年のことでした。

日本でボースは孫文と知り合い、その紹介で頭山満の知遇を得て潜伏生活をします。しかしそれがイギリス政府に伝わり、日英同盟を結んでいた日本政府は国外退去命令を出します。退去日の前日に頭山から依頼を受けた相馬夫妻は、ボースを中村屋のアトリエにかくまいます。一商店が政府の意に反して亡命者をかくまうことの危険は計り知れないものでしたが、中村屋の従業員全員が団結し、保護にあたりました。

翌年、日本政府はボース保護に方針転換しますが、イギリスからの追及は続きます。ボースは逃れるため隠れ家を転々としますが、このとき、逃亡生活を支えたのが相馬夫妻の長女 俊子でした。二人は後に結婚し二人の子供をもうけますが、俊子は逃亡生活の心労がたたり、1925(大正14)年、26歳で早逝します。。

俊子の死後も中村屋との交流を深めたボースは、1927(昭和2)年、本場のカリーを日本に紹介したいとの思いから、中村屋の喫茶部の開設とともに純印度式カリーを売り出すことを提案します。当時、日本に広まっていたカレーはイギリスから伝わった、小麦粉を使用したものでした。
材料を厳選し、スパイスをふんだんに使った本格カリーは、その発売のエピソードも手伝って評判を博します。町の洋食屋のカレーが10~12銭だったのに対し、中村屋のカリーは80銭でしたが、飛ぶように売れたとの記録が残っています。

ラス・ビハリ・ボースと俊子の結婚 1918(大正7)年

仲人は頭山満。ラス・ビハリ・ボース32歳、俊子20歳のときでした。
日本政府からの追及はなくなっていましたが、イギリス政府からは相変わらず追われており、逃亡しながら結婚生活を続けました。

ラス・ビハリ・ボースと俊子の結婚式

結婚式はイギリス政府からの追及を逃れながら、頭山満邸で親族と一部関係者のみが出席して行われました。
写真は会場を別にして行われた披露宴で、右端にボースと俊子、その向かい側に創業者 相馬愛蔵と黒光、左端には二人の仲を取り持った頭山満が写っています。

インドの民族衣装であるサリーをまとった相馬黒光(左)と俊子(右)

この写真は1921(大正10)年ごろのものと思われます。

ラス・ビハリ・ボースとその後援者たち

ボースはイギリス政府が雇った横浜の探偵から逃げ、都合17回も転居を繰り返したとあります。
写真は東京・麻布新龍土町の隠れ家で撮られたもので、1917(大正6)年ごろの写真です。
ボースは1923(大正12)年に日本に帰化し「防須」となりますが、その名付け親は後に第29代総理大臣を務める犬養毅でした。

インドの詩人 タゴールと相馬夫妻、ボース一家

左からラス・ビハリ・ボース、ボースの長男 正秀、黒光、タゴール、愛蔵、ボースの長女 哲子です。
タゴールはアジアで初めてノーベル文学賞を受賞したインドの詩人です。戦前、数回来日しますが、写真は昭和の初めに撮影されたものです。写真下にうっすらと署名が見えますが、各人の直筆だと推察されます。

喫茶部開設当日の記念写真

お客さまからのご要望もあり、1927(昭和2)年6月12日に喫茶部(レストラン)を開設。建物の左側を増築し、喫茶部の入り口としました。
記録によるとこの年、従業員は60名、年間の売上高は約37万円でした。

昭和初期の中村屋喫茶部 インド間

大内青圃のテラコッタ(素焼きのレリーフ)が壁の上部に見えます。1945(昭和20)年5月25日の大空襲で中村屋は被災しますがこの作品は焼け残り、戦後も建て直された新宿本店の3階に飾られていました。
また、テーブルには碌山の「灰皿」が見えます。創業者の著書『一商人として』によると、喫茶部開設にあたり25個製作しましたが、持ち帰ってしまうお客さまが多くいたため、早々に使用をとりやめたとあります。

店頭風景

写真は帳場に座る相馬愛蔵と制服のルパシカを着た少年店員。

発売当初の「純印度式カリー」のセット

祖国インドのカリーを日本でも食べてもらいたいと、ボースは喫茶部のメニューに純印度式カリーを入れることを提案します。写真はカリーのセット。
一番手前にライス、その奥に陶器に入ったカリー。左側にはフルーツ、右側にはコーヒーが見えます。このセットで80銭。発売当初の値段です。

厳選したカリーの原材料

鶏肉は自前の軍鶏飼育場を山梨県に、バターとヨーグルトは自営牧場を東京都調布市に開設しました。そして、お米は江戸時代、殿様米と称された埼玉県幸手市の白目米を契約栽培して仕入れます。

「ボルシチ」を発売

「月餅」、「天下一品支那饅頭」(中華まん)を発売

月餅と天下一品支那饅頭(中華まん)

1927(昭和2)年に喫茶部(レストラン)が設けられカリーライスが発売されますが、同時に「月餅」「天下一品支那饅頭」(現在の中華まん)も登場しました。
写真上が「月餅」、左下が「天下一品支那饅頭」です。

1928年昭和3年

創業者 欧州へ視察旅行

欧州視察

大正末期、創業者 相馬夫妻は朝鮮半島から中国大陸を数カ月かけて回り、見聞を広め多くの商品を持ち帰り、中村屋の名物として育てあげました。また、昭和初期には欧州視察にも出発します。
写真は欧州視察で撮影された写真で、愛蔵は終始和服で通したようです。欧州では商店経営や流通等多くのことを学び、帰国後『欧州視察漫談』としてまとめています。

相馬愛蔵の欧州土産の赤いトルコ帽をかぶる少年店員

当時は高等小学校卒業後から20歳未満までの男性を、一年に一度定期的に採用していました。写真は1931(昭和6)年ごろで、ルパシカを着た少年店員のあどけない笑顔が印象的です。

1930年昭和5年

雑誌「中村屋」創刊、中村屋の歌誕生(今で言う社内報と社歌)

戦前の雑誌「中村屋」

1930(昭和5)年、雑誌「中村屋」(今で言う社内報)を発刊します。写真は戦前に発行された社内報で左上から右、下段へと発行順に並んでいます。題字は第一号が相馬愛蔵、二号は相馬黒光がロシア語を好んでいたためロシア文字で、三号以降は河東碧梧桐や中村不折、頭山満らが書いています。社内報は戦後、一般的になりましたが中村屋のそれは先駆的でした。同年に社歌(当時は「中村屋の歌」と呼んでいた)も制定され、これもまた当時珍しいことであったようです。

鎌倉に、黒光庵・妙俊庵(保養所)を建設

1938(昭和13)年の従業員保養所の風景

鎌倉の江ノ電極楽寺駅の南側にある陣鐘山の山頂に「黒光庵」と「妙俊庵」の2棟があり、「妙俊庵」が従業員の保養所として使用されていました。
少年店員の着用する戦闘帽とゲートルが時代を物語っています。

1931年昭和6年

ロシア人菓子職人 スタンレー・オホツキーを採用

ロシアの製菓技師を招聘

1931(昭和6)年、年俸4千円という破格の待遇で採用したロシアの製菓技師 スタンレー・オホツキーとその家族。中村屋はロシアケーキ、ロシアチョコをはじめ、オホツキー指導のもと、多くのロシア菓子を販売します。

”ロシヤパン”、”ロシヤ菓子”の営業案内

昭和初期の「営業案内」に記載されたロシアパン、ロシア菓子。
中村屋はロシア文学に傾倒していた黒光の影響もあり、大正中ごろからロシアの職人や技師を多く採用し、数多くのロシアパン・菓子を発売しました。

ロシア菓子の製造とロシア人技師

写真はボルガ工場と呼ばれたチョコレート工場での製造風景。右側の人物がロシア人の技師 スタンレー・オホツキー。昭和初期に入社した元従業員の話では「オホツキーは大変怖い人で、いつも怒られていた」とあります。

1933年昭和8年

四季包装紙の使用を開始

1933(昭和8)年から1989(平成元)年まで使用された中村屋の包装紙

画家であり、中村屋の美術顧問を務めていた布施信太郎の「春」「夏」「秋」「冬」の4枚の絵を包装紙にデザインして使用していました。
中央の「新宿中村屋」の文字は中村不折ですが、頭山満のものも残っており、時代で変えていたようです。

「ピロシキ」を発売

1934年昭和9年

日本で初めてとなる水羊羹缶詰を発売

羊羹の缶詰

1934(昭和9)年、中村屋は日本で初めて「水羊羹」の缶詰化に成功します。
日持ちのしない「水羊羹」をお土産に希望されるお客さまが多くいたため、缶詰にすることで日持ちを良くしました。
写真は1932(昭和7)年ごろの営業案内には「罐詰水羊羹 三本 三〇銭」とあります。

1937年昭和12年

中村不折揮亳「中村屋」の文字を商標登録

「新宿中村屋」のロゴ

「中村屋」の文字は洋画家であり、書にも精通した中村不折(なかむら ふせつ)の書で、中国の六朝体の書風を汲んでいるといわれています。
現在もこのロゴを使用しています。

中村屋のマークを商標登録

現在も使われている「社章」

二代目社長の相馬安雄がデザインし、1937(昭和12)年に商標登録されます。
2頭の馬「双馬」を創業家 相馬とし、右下に西洋で貨幣を数えるときに使われるチェックを配して商売を表し、左下に均衡のとれた天秤を配して正確・正直を表しています。

研成学院開校

研成学院の授業風景

中村屋は高等小学校卒業の「少年店員」を採用し、企業内学校「研成学院」を設立し教育を行います。戦争を機に「研成学院」は一時閉鎖しますが、戦後、再度開校して昭和30年代まで続きました。

1938年昭和13年

愛蔵『一商人として』出版

相馬愛蔵『一商人として』

商売が軌道に乗った愛蔵は、世間の人々から「中村屋が繁盛する祕訣を話せと云ひ、商賣のコツを敎えてくれなどと云ふ人がある」と多くの要請を受けて、1938(昭和13)年『一商人として』を刊行します。新たに商売を志す人の参考になるように書かれた同著は1978(昭和53)年まで増刷を重ね、世間からも高い評価を受けました。
現在は絶版となりましたがウェブサイト「青空文庫」で閲覧することができます。

1939年昭和14年

株式を公開

1940年昭和15年

「カリーパン」を発売

1945年昭和20年

大空襲により本店、寄宿舎、工場など焼失

戦災による中村屋の焼け跡

東京は空襲により焦土と化し、中村屋も灰燼に帰しました。日本も東京も、そして中村屋もこの焼け跡から再出発しました。

昭和(戦後) 中村屋の出来事

日本一のターミナル駅、新宿。その息吹は、戦後すぐに見ることができます。終戦後1週間もたたないうちに、関東尾津組が新宿大通り沿いに闇市を開設したのです。「光は新宿より」をキャッチフレーズに、大露店市場が形成され、戦後復興、新宿発展の一翼を担いました。新宿という街が持つ大きな力が胎動をはじめます。
しかし一方で、戦後の混乱にまぎれて中村屋は尾津組により土地を不法占拠されてしまいます。

1948(昭和23)年、中村屋は新宿大通りに面した表側を尾津組に占拠されたまま、焼け残ったビルを修復し営業を再開します。従業員は戦前の商品の味を復活させようと尽力し、また、併せて新商品の開発を行いました。そして約8年間の歳月を要して尾津組から敷地を取り戻し、いよいよ本格的に営業を再開。1954(昭和29)年には東館新設、1958(昭和33)年には本店ビルの改装を行い、新宿の変貌に合わせてその姿を変えていきます。

一方で、1953(昭和28)年の伊勢丹老舗街への出店を機に、それまで貫いてきた一店舗主義から多店舗展開へと大きく舵を切ります。それに対応するため工場の生産は飛躍的に増え、笹塚(東京)工場、神奈川工場、埼玉工場を新設します。また、東京近郊に限られていた営業拠点も札幌から福岡まで拡大していきます。

高度成長期には大阪で開催された万国博覧会に出店し、創業者夫妻をモデルとしたTVドラマ、演劇や小説が発表されるなど大きく取り上げられました。

1979(昭和54)年、時代の要求に応えた飲食主体のビルにするため、本店の改装が行われました。日本の高度成長やそれに伴う人々のライフスタイルの変化を捉え、老若男女、先取性の高い層、文化の香りを楽しむ層、食べることを楽しむ層をターゲットとした、「味は文化です」というテーマを中村屋本店で具現化させることを目指します。本店の愛称を「シェモア(私の家)」とし、軽食からパーティーまで、シチュエーションに応じて利用できる店舗作りを行いました。

また本店だけでなく外食産業やコンビニへの参入等、市場の変化に合わせた事業展開を行い、業容を広げていきました。

1946年昭和21年

中村屋焼け跡に尾津組が不法占拠し闇市ができる

終戦直後の闇市

戦後の物資不足の中で、新宿大通り沿いには早い時期に闇市が登場しました。関東尾津組が当社の敷地を含む一帯を不法占拠し闇市を開設したのです。尾津組は「光は新宿より」を宣伝文句に、新聞広告まで出して大々的に事業を展開しました。

1948年昭和23年

売店と喫茶室の営業を本格的に再開

本店の販売風景 1951(昭和26)年

1948(昭和23)年4月22日、中村屋は戦後復興を成し開業します。新宿大通り側は尾津組が不法占拠していたため、裏から入るかたちでの開業でした。
左の写真中央のビラには「主要原材料値下、雑穀統制撤廃につき菓子類全般値下します」と書いてあります。朝鮮動乱を経た、戦後の日本の復興が読みとれます。

1950年昭和25年

関東大震災から始まる社会貢献

関東大震災記念の特価販売で賑わう店頭

1923(大正12)年に関東大震災がありましたが、新宿はほとんど被害を受けず、中村屋も無事でした。 中村屋はそのとき「地震パン」「地震饅頭」「奉仕食パン」の3品を夜通しで製造し、被災民に特価で提供します。
その後、震災の経験を忘れないよう、毎年9月1日には「大震災記念販売」と銘打ち特価販売を行うようになります。
この写真は大正の終わりごろのものです。

大正末期から昭和初期の新宿大通り

関東大震災で罹災を免れた新宿の街に、都心の百貨店、金融機関が相次いで出店しました。
百貨店では三越、松屋、伊勢丹、ほてい屋などが出店。写真左奥のビルがほてい屋(後に伊勢丹と合併)、 三越は1925(大正14)年ごろは現在のアルタの場所にありました。

1951年昭和26年

笹塚(東京)工場落成

笹塚工場敷地の中央部に落成した洋菓子工場 1952(昭和27)年

戦前は新宿の工場で製造していましたが空襲によって焼失しました。そのため1946(昭和21)年に調布に工場を建てますが、生産量が飛躍的に増え、新宿から遠い調布では不都合が生じるようになります。そこで新宿の周辺に工場用地を探し、1951(昭和26)年に落成したのが笹塚工場でした。笹塚工場には洋菓子製造棟とパン製造棟を設置。パン製造にあたっては日本で初めてアメリカの新鋭ディバイダー&ラウンダー機(パン生地の分割、丸め整型機)を導入しました。

1953年昭和28年

株式を東京証券市場店頭に公開

連続式製パン機をアメリカから輸入

センチュリー社製自動一連式製パン機と組み立てに携わった従業員

この年、中村屋は中型自動一連式製パン機(米センチュリー社製)を日本で初めて導入します。このころは機械メーカーのサービスが現在ほどではなかったため中村屋の社員が組み立てましたが、説明書が英文だったこともあり大変苦労した旨の記録が残っています。

百貨店に進出。伊勢丹に直売店を出店し多店舗展開へ

1954年昭和29年

愛蔵死去、享年83歳

特約店制度が発足

本店東館が営業開始

新宿大通り側からみた中村屋の東館 1955(昭和30)年ごろ

紀伊国屋あたりから撮影されたものです。写真左奥のビルは武蔵野館、中村屋の隣は映画館です。手前のオート三輪が時代をしのばせます。

1955年昭和30年

黒光死去、享年79歳

黒光が集めた寄付により、老人ホーム「黒光ホーム」が完成

黒光ホーム

黒光は戦後、家族制度が崩れ老人の地位が不安定になったことを憂い、思案を重ね「千一クラブ」運動を起こします。これは有志を募り、収入の千分の一を積み立て老人ホームの建設資金に充てる活動で、集まった募金と相馬夫妻からの寄付を合わせ、杉並区高井戸の浴風園内に「黒光ホーム(黒光園)」を建設しました。1955(昭和30)年9月に完成しますが、黒光はその半年前に他界しており、完成した黒光ホームを目にすることはできませんでした。

1956年昭和31年

「碌山」を発売

昭和30年代の「碌山」

写真の商品は中村屋の代表商品の一つ「自慢詰合わせ」です。当時の詰め合わせは、折入の写真の左列が1927(昭和2)年に発売した「月餅」、真ん中が日本古来の焼菓子「桃山」でした。そして右列が中村屋ゆかりの人物である彫刻家 碌山の名前を戴いた焼菓子「碌山」です。

1957年昭和32年

東京証券取引所に株式上場

1958年昭和33年

本店改装、開店

改装前の本店 1957(昭和32)年

翌年の1958(昭和33)年に地上6階、地下2階のビルに生まれ変わりますが、その直前の本店です。 店頭の中村屋の看板が右から書かれていますが、これ以降すべて左から書かれます。

工事中の本店

1958(昭和33)年夏ごろの写真で、右側に新宿高野や三越、左側に銀座ワシントン靴店など、当時の懐かしい建物が見られます。

本社・本店ビルが完成

地下2階、地上6階。5階には結婚式場が設けられていました。左上の写真は新装開店を知らせるポスターです。

本社・本店ビル開店時の混雑

菓子のショーケースがお客さまに押されて動いたと記録にあります。
會津八一(秋艸道人)揮毫の中村屋の看板が見えます。

1959年昭和34年

QCを導入

「カリー缶詰」「コールマンカリー」を発売

1963年昭和38年

大阪営業所開設

1967年昭和42年

大阪証券取引所に上場

1968年昭和43年

神奈川工場落成

完成間近の神奈川工場(左)と現在の神奈川工場(右)

昭和40年代に入り、中村屋の関東での商圏は東京西部から神奈川県央にまで広がっていました。既存の工場だけでは生産能力が不足することが明白だったため、1968(昭和43)年11月1日に神奈川工場を設けます。当時の生産ラインは食パン、中華まんじゅう、煎餅、チョコレートで、中村屋の生産高は3割以上増加しました。

芸術座で「カリーライス誕生」(愛蔵・黒光の半生記)公演

「カリーライス誕生」を紹介した社内報の記事

この年、相馬夫妻の半生を描いた舞台劇「カリーライス誕生」(東宝現代劇特別公演)が芸術座にて公演され、各新聞社はこぞってこれを取り上げ、話題となりました。
愛蔵役(劇中では淳蔵)は中村吉右衛門さん、黒光役(劇中では愛)は岡田茉莉子さん。この舞台のキャッチフレーズは「新宿の街には大きすぎた夫婦!」でした。

1969年昭和44年

全国ネットで朝のテレビドラマ「パンとあこがれ」(相馬夫妻伝)が放映

「うにあられ」を発売

1970年昭和45年

日本万国博覧会に出店

万博での中村屋の取り組みを紹介する社内報の記事

アジアで初めての万国博覧会が1970(昭和45)年に大阪府下千里丘陵で開催されました。中村屋は生活産業館で重量761kgにも及ぶ工芸菓子「日本庭園」を展示。また敷地内のレストランでは「民族と味と平和」をテーマとし各国料理を紹介するとともに、中華まんじゅうやピロシキなどを販売しました。
写真左は建設中の大阪万博会場を訪問した中村屋のキッチンカーです。

1971年昭和46年

このころ、全国に営業所を開設し、全国展開を本格的にスタート

1972年昭和47年

本店改装、開店

1974(昭和49)年ごろの本店

高度成長期を経て、新宿の街は大きく様変わりし、お客さまのニーズも大きく変化します。中村屋はそうした変化に対応すべく本店を飲食主体の店舗へとシフトしました。

「パックカステラ」を発売

1972(昭和47)年ごろのカステラ

16世紀末、室町時代の終わりごろにポルトガルの宣教師によって長崎に伝わったとされるカステラ。その原材料は卵、小麦粉、砂糖が主体でいたってシンプルです。西洋のお菓子に多くみられる油脂を使わないことも日本人に受け入れられやすかったようです。
カステラの賞味期限は短いのですが、中村屋では1972(昭和47)年、カステラをパックに包み、ガス(炭酸ガス)充填することでパック内の酸素を減らし、おいしく召し上がっていただけるよう賞味期間を延ばすことにしました。

1973年昭和48年

福岡営業所を開設

黒光製菓㈱に出資し、子会社とする

1975年昭和50年

NC(中村屋チェーン)店制度が発足

開店当日のNC保谷駅前店

中村屋のフランチャイズチェーンで、「NC」はナカムラヤ チェーン(Nakamuraya Chain)の略。1975(昭和50)年に1号店を出店。写真はNC1号店(NC保谷駅前店)開店初日の模様で、多くのお客さまにご来店いただきました。

1977年昭和52年

(株)ハピーモアに出資し、子会社とする

1979年昭和54年

本店、「シェモア新宿中村屋」として新装開店

生まれ変わった中村屋本店

「シェモア新宿中村屋」と一新し、フロアごとに特長を明確にした店舗としてリニューアルしました。

埼玉工場落成

埼玉工場の外観と製造ライン

1974(昭和49)年の京王帝都電鉄の複々線工事や1977(昭和52)年からの都道補助26号道路の工事に伴い、笹塚工場敷地の一部を譲渡することになり、生産機能を大きく失うことになりました。笹塚、神奈川に次ぐ首都圏の第三工場の建設が急務となり、埼玉工場が1979(昭和54)年に完成します。

1982年昭和57年

南欧風レストラン「オリーブハウス」の1号店を開店

1983年昭和58年

株主優待制度導入

食品工場(後に神奈川工場に改称)落成

食品工場の外観と竣工式の様子

業務用食材事業の強化のため、冷凍食品およびレトルト食品を生産する食品工場が神奈川工場の敷地内に完成。国内で最初のFMS生産システム(flexible manufacturing system)を導入し、多種多様な原材料の運搬・保管・加工を生産計画に基づいて自動的に行うことができるようにしました。
同工場は、後に神奈川工場と統合。

「カリーまん」を発売

1985年昭和60年

前年「じゃがまるくん」を発売し、「’84年日経・年間最優秀賞」受賞

中華まんコンビニに展開

1986年昭和61年

「ピザまん」を発売

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