秋田雨雀あきた うじゃく

盲目の父とエロシェンコ

秋田雨雀(本名 秋田徳三)は、明治16年青森県の黒石町(現 黒石市)に、父 玄庵、母 まつの長男として誕生しました。父は産科医でしたが眼疾のため失明しており、子供の頃の秋田は父の俳句の代書をしたり、医学書や科学書を読んだりしました。また、自らの意思で聖書や近代日本文学を好んで読む多感な幼年期を過ごし、感受性の鋭い少年に育っていきました。秋田は生涯にわたって小説、戯曲、児童文学、日記などを書き続けましたが、その芽はすでにこの頃より育ち始めていたようです。

早稲田大学卒業後、作家生活を送ったり新劇運動に参加したりした秋田は、大正4年の初春、鬼子母神の森を散策していた盲目の詩人 ワシリー・エロシェンコに出会います。苦しい劇団運営のため絶望的になっていた秋田は、盲目でありながらエスペラント運動を熱心に行っていたエロシェンコのひたむきな姿勢に打たれ、深い交流を持つようになります。勿論エロシェンコと親しくなっていく過程で父の影響は大きいものでした。秋田33歳、エロシェンコ26歳の時でした。

土蔵劇場

中村屋の2階で開かれた
脚本朗読会(一番左が雨雀)

大正4年9月に秋田は神近市子と共にエロシェンコと東京大学に行きました。学生に請われてエロシェンコの講演をするためでした。エスペラント語の講演を秋田が通訳しました。講演後、東大を出た3人を、当時は支店になっていた本郷の店先で相馬黒光は見かけ、呼び込みました。黒光とエロシェンコの出会いです。大正4、5年頃の秋田の日記を読むとエロシェンコ一色で、大正5月23日に日記には「・・・夜、エロシェンコ君を訪おうと思うと、目白駅で竹久夢二君にあったので二人で新宿の中村屋を訪う。(中略)奥さんとしばらく話していると帰ってきた」とあります。5月16、17、19、20日とほぼ毎日エロシェンコを訪ねています。秋田とエロシェンコが出会い、互いに啓発されたように、黒光とエロシェンコの出会いもまた両者に大きな可能性を与えることになりました。当時、黒光はロシア文学に傾倒しており、エロシェンコと知己を得たことは黒光にとって大きな意味を持つことになります。黒光は彼を自宅に住まわせ、ロシア語を習いました。

中村屋サロン脚本朗読会

一方、黒光と秋田は「朗読会の開催」という共通の目標を持っていました。 根っから演劇や朗読が好きだった黒光と、自分の作品が同志社大学で朗読されたのを機に自信をつけていた秋田は、 中村屋の2階での朗読会の開催に意欲を燃やします。会の名前は秋田の作品「土」にちなんで「土の会」。大正12年4月には上演することになり、平河町にあった相馬家の2階で行うこととなりました。建物が土蔵だったので「土蔵劇場」、劇団名は「先駆座」としました。観劇は会員制とし、申込み順で一番が島崎藤村、二番が有島武郎など名だたる名前が連なりました。 秋田の作品が上演されたことはいうまでもありません。

残念ながら「土蔵劇場」は関東大震災で建物が崩壊し、その幕をとじることになります。

明治・大正・昭和を駆け抜けた幅広い活動

秋田雨雀といえばまず戯曲を思い浮かべますが、それだけにとどまらず、その活動は実に幅広いものでした。

明治37年、22歳で詩集『黎明』を自費出版、40年に小説『同性の恋』を発表し、早稲田文学新進小説家の一人として注目され、45年には戯曲『埋もれた春』を発表します。以後、戯曲をはじめ数多くの詩、小説、童話、随筆、評論などを書きました。また、劇作家、舞台芸術家としての一面も見せた新劇運動やエスペラント運動でも活躍し、明治・大正・昭和を幅広い活動で駆け抜けました。ちなみに、秋田は昭和2(1927)年にロシア革命の十周年祭に国賓として招かれ、10月17日に6年ぶりにモスクワでエロシェンコに再会しています。

昭和37年5月12日、その長い人生に幕をとじますが、文学界における秋田雨雀の影響力は図りしれないものがありました。

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