島貫兵太夫しまぬき ひょうだゆう
少年時代
島貫兵太夫は1866(慶応2)年8月18日、現在の宮城県岩沼市に生まれました。父の資澄は仙台藩士でしたが、戊辰戦争後、仙台藩の下級武士の多くは帰農を余儀なくされ、島貫家も例外ではありませんでした。資澄は農業が苦手、また凶作にも見舞われ、島貫は貧しい少年時代を送ります。また、5歳のときには母と死別。しかし、この少年時代の家庭の逆境が、後の力行会設立につながっていきます。
島貫が9歳のとき、岩沼にも小学校ができますが、貧しい島貫家には小学校に通わせるだけの財力はなく、14歳までの間を親戚の産婦人科医のもとで過ごします。しかし14歳のとき、父に無断で小学校へ入学、今まで抑えていた“勉強がしたい”という気持ちを一気に吐き出し猛勉強した結果、1年半後には首席で卒業します。そして、1881(明治14)年には小川小学校の助教になり、訓導資格試験を受け、教育への情熱を燃やしていきます。
キリスト教との出合い
島貫とキリスト教との出合いは岩沼小学校の初等訓導になったころに訪れました。1882(明治15)年、押川方義らがキリスト教の伝道を開始、信者は瞬く間に増え、岩沼小学校の教員の中にも熱心な信者が現れます。島貫はその人を軽蔑していましたが、あるときその人に「あなたはキリスト教を知りもしないでばかにしている」と非難されます。そこで「じゃあよく知った上でもっと悪いところをあげてやろう」と思い、キリスト教の研究を始めます。しかし、ばかにするどころか逆に感銘を受け、熱心な信者となり、伝道に努めるようになります。
仙台神学校・東北学院時代
1886(明治19)年仙台神学校(後に東北学院と改称)に入学した島貫は、最初の神学生としてキリスト教の研究を始めます。この頃に星良(中村屋の創業者 相馬黒光)との出会いがありました。良はよく仙台神学校の日曜学校に参加し、島貫から教えをうけていました。そこでキリスト教に目覚めた良は、後に洗礼を受けます。また島貫の勧めで相馬愛蔵と交際するようになります。
在学中、郷里の岩沼から出て来た二人の少年の面倒を見たことを手始めに島貫は苦学生の世話をするようになります。これが後に日本力行会の基になります。1892(明治25)年には東北救世軍の結成、長期休暇を利用した東北・朝鮮の伝道旅行など精力的に活動。この活動を通し、“貧民に対する同情がなくては伝道は不可能、まずは貧民の救済をすべきだ”と意を強くしました。
日本力行会の設立
1894(明治27)年、東北学院卒業後上京した島貫は、押川とともに朝鮮人教育を目的にした大日本海外教育会の仕事をします。そして1897(明治30)年元日の朝、あいさつ回りをしていた島貫は、救世軍の新年伝道隊の活動をみかけ「あいさつ回りしている場合ではない。苦学生のために動かなければ」と決心。苦学生救済の事業開始を宣言します。苦学生救済会として発足し、1900(明治33)年には「苦学力行」からとった「日本力行会」と改名。苦学生を救うための移民事業に力を入れます。また、苦学生支援の一方で、のちに力行会内に力行教会を創立し伝道との一体化を図り、『力行会とは何ぞや』『新苦学法』などを出版、執筆活動にも力を注ぎました。
1913(大正2)年9月6日に47歳で肺結核が原因で亡くなりますが、葬儀の参列者は500人以上にのぼりました。東北学院長 シュナイダー博士の弔詩によると力行会の会員は一万人を超え、島貫の人格を絶対献身と自己犠牲が際立っているとたたえています。このことからも、島貫兵太夫が無限とも思える献身的な活動によって救った苦学生の多さが分かります。