ラス・ビハリ・ボース

ラス・ビハリ・ボースと俊子

少年期

ラス・ビハリ・ボースは、明治19(1886)年インド ベンガル地方に、政府新聞の書記をしている父 ビノド・ビハリと母 ブボネンショリの長男として生まれました。家は代々武士の階級(インド4階級の2番目)でした。幼少期は母方の叔父のもとで育ち、その後シャンデルナゴルへ、続いて父の転勤でカルカッタへ移り、再び父の転勤があると叔父の家へと移り住み、転々とした生活を送ります。このような家庭環境からくる淋しさや不満が、ボースの革命精神をより増強させていったのです。

革命家へ

ボースの中の革命家精神を目覚めさせたのは、学生時代、当時の新刊で革命に燃える青年達に広く読まれた『サラット・チャンドラ』でした。その本に書かれたインド兵反乱に血を湧き立たせ、ボースは学業を捨てインド兵になることを志願。そして、ウイリアム要塞司令官に入隊を志願しますが、ベンガル人は身体特徴から兵士に向いていないという理由で志願兵として登録出来ないとの返事を受けてしまいます。その後も志願し続けて行動に移すも失敗し、結局父の強制で森林研究所化学部門の実験補助員に任官します。しかし、この職務は革命活動におおいに利用できるものでした。赴任先がグルカ兵(ネパールの山岳民族の傭兵)輸送の中心地や所在地であったため、兵士に革命思想を叩き込むことで運動を拡大させることができ、また、勤勉な官吏として行動していたため、責任あるポジションを任され、爆弾製造の部品や薬品を密かに調達できました。また大正元(1912)年にデリーにおける総督爆殺計画を決行してもしばらくは疑われることなく、逆に警察が革命党員の行動内偵をボースに依頼するほどでした。

しかし、2年後の大正3(1914)年にはデリー事件でのボースの主犯が判明、ボースの首には12,000ルピーの懸賞金がかけられます。そして大正4(1915)年のラホールの反乱も密告により失敗。身の危険が迫る中、ボースは武器を入手するため日本に渡ることを決意します。そんな時、アジアで初めてノーベル文学賞を受賞したベンガルの詩聖 ラビンドラナード・タゴールが日本行きを計画していることを知ります。そこで、来日の下準備をする親類だと偽って来日します。

相馬夫妻との運命の出会い

大正4(1915)年6月5日、神戸に上陸したボースは京都経由で8日には東京に着き、7月28日には中国の革命家孫文を箱根に訪ね、肝胆相照らします。武器をインドに送るためボースは上海に渡り、東京の同志から送られてきた多量の武器をインドに送ります。ところが、この船がイギリス官憲に見つかり、同時にボースの密入国がイギリスに発覚してしまい、追及されることになります。日本に戻ったボースに孫文は大アジア主義を唱えた「玄洋社」の頭山満を紹介します。当時の日本はイギリスと日英同盟を締結しており、イギリスのお尋ね者であるボースに国外退去命令が下ります。同年の11月28日のことでした。退去期限の12月2日を翌日に控えた12月1日の夜。官憲の尾行がついたボースは頭山邸から変装し、警官の目を欺き逃亡します。そして逃げ延びた先が中村屋でした。それから相馬夫妻は3カ月間半、命がけでボースを匿います。ちなみに、この間にボースが相馬夫妻にカリーライスを作り振る舞ったのが縁となり、中村屋は昭和2(1927)年に「純印度式カリーライス」を発売します。

この後約4年間、英国政府の追及が続き、17回にもわたり隠れ家を移り住む逃亡生活を送ります。それを支えたのが相馬夫妻の長女 俊子でした。中村屋を出た後のボースとの連絡役を務め、大正7(1918)年には頭山の媒酌で結婚しますが、逃亡中のことで隠れて行われました。同年、第一次世界大戦が終結したことを受けイギリスによるボース追及が終わり、一家は中村屋の敷地内に新居を建て生活します。

しかし残念なことに翌年、俊子は肺炎で亡くなります。享年26歳の短い生涯でした。

ボースはこの後、大正12(1923)年に日本国籍を取得し、インド独立運動に邁進。もう1人のボース、セバス・チャンドラ・ボースとも手を組み、その活動は東南アジア諸国に及びました。

晩年

ラス・ビハリ・ボースは昭和20(1945)年1月21日、インドの独立を見ることもなく亡くなり、ボースと俊子の長男 正秀も日本陸軍戦車隊の一員として沖縄戦を戦いこの年6月のに戦死します。また、チャンドラ・ボースも8月19日、台湾上空で航空機事故に遭い共にインド独立を見ることなく亡くなります。

2人のボースが一生を捧げたインドの独立は2年後の昭和22(1947)年、インド国民の蜂起により果たされました。

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