松井須磨子まつい すまこ

黒光のひいき女優 松井須磨子

中村屋の創業者 相馬黒光は大正初期から早稲田大学教授 島村抱月主催の「藝術座」のメンバーと親交を結んでいました。優れたロシア文学に接し、単調で勧善懲悪型から脱しきれない日本の演劇に失望していた黒光が「藝術座」に興味を示したことは自然のなりゆきでした。そのメンバーの中でも、長野県の北信出身の松井須磨子は特にひいき女優。彼女の演劇に全てを打ち込んでいる姿に感動したからでした。

演劇へのめざめ

松井須磨子(本名 小林正子)は1886(明治19)年7月20日、現在の長野県松代町清野に士族の五女として誕生。幼少期を養子先の長野県上田で過ごし、1901(明治34)年、養父の死により実家に戻りますが、今度は実父が死亡。翌年上京し、姉の嫁ぎ先であった東京・麻布の風月堂に身を寄せ、裁縫の学校に通います。そして一度の失敗を経て、1908(明治41)年に俳優養成所で教鞭をとる前澤と再婚。前澤の勧めで文藝協会演劇研究所に通い、次第に演劇の稽古にのめりこむようになります。しかし、熱中するあまり食事も作らない、亭主の着物も繕わなくなった正子に対し前澤は愛想を尽かしてしまいます。

芸術作品 松井須磨子

島村抱月

夫と別れた正子は、以前にも増して熱心に芝居に取り組み、“松井須磨子”の芸名をもらいます。そして劇「人形の家」で“ノラ”を演じた須磨子は、敬愛する舞台監督の島村抱月に認められ、意志を同じくする2人は結ばれます。以後、帝国劇場での「人形の家」の再演、地方各地での巡演を行い大成功した須磨子は、女優としての階段を上り始めました。

カチューシャに扮した
松井須磨子

一方、島村は彼女との不貞関係を非難され、文藝協会を脱退。新しい劇団「藝術座」を1913(大正2)年に旗上げ、次々に興行を成功させます。そしてトルストイ作「復活」の上演では、須磨子が歌った「カチューシャの歌」が大ヒットし、須磨子は大女優となりました。“カチューシャどめ”というかんざしができ、大流行。またその名を冠した薬が発売されたほどでした。

芸術性と営利の両立を目指す“二元の道”を唱えた島村にとって、女優としての“松井須磨子”は欠かせない存在であり、彼女も「女優 松井須磨子こそが島村抱月の“二元の道”を体現できる、生きた芸術作品である」と自負していました。

瀧太郎と正子として

女優として一人前になった須磨子を見て、島村は他の座員の育成に取り掛かります。しかし自分だけを見て欲しい須磨子は、妬みからわがままを言ったり他の役者を罵倒したり、島村を困らせます。彼女にとって島村自身と彼が掲げる演劇が人生のすべてだったのです。そして須磨子は「サロメ」の舞台で、サロメ役の自分が島村に見立てたヨカナーンを独占することで、また、演劇の実力をアピールすることで、島村にとっての自分の存在価値を高めようとしました。

しかし、1918(大正7)年11月5日、島村は病死。役では彼を独占できた須磨子も、“正子”として“島村瀧太郎(抱月の本名)”を独り占めすることはできませんでした。

そしてからっぽになった須磨子は、1919(大正8)年1月5日、島村の後を追い32歳の若さで自ら人生の幕を下ろしました。

黒光は1937(昭和12)年9月の『女性時代』に同年5月23日の日記として須磨子を思い出し「元來無學の田舎娘に過ぎないのにあれだけ出世したのは偉らいと云はねばならない」とした後、須磨子の生前の行状を非難しています。そして結びに「就眠前又動悸激しくなる。須磨子の祟りかもしれない」としています。

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